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桐壺登場 その十三 桐壺更衣、自らの葬送を語る

その十三 桐壺更衣、自らの葬送を語る

 私が動き出したのは多分、好奇心でした。
 そうだ、葬送を見に行こう!
 と、いうわけで私は、私がそう思いさえすれば私はそこに出現する、そういう身の上になっておりました。
 空から二条院を見下ろすと、母が私にとりすがって泣いております。お母様、ちょっと、どいて下さい。よく見えません。
 人間の死体を見るのは父以来です。これが二度目です。しかし一度目とは事態が全く違います。自分の死後に自分で見る自分ですから、一生に一度の機会なのです。あら、私たちの一生って、どこからどこまでなのでしょうか。あ、見えました。どれどれ。
 これが私?
 信じられません。なんて小さな存在なの。
 私は生きていた頃、世界の中心のお姫様でした。でもこうしてみる私はただの物品です。私は普段使いに使い古した茶碗、櫛、鋏、硯、傘、車、扇、巻物、屏風、ありとあらゆる人工物を思いました。また秘蔵された宝物庫の中の鏡、硝子細工、螺鈿細工、刀剣、琵琶、勾玉、香炉、陶磁器など、ありとあらゆる人工物を思いました。私の体はそのあらゆる人工物と同じだったのです。そしてあろうことか、その辺の無意味に転がっている石と同じ自然物だったのです。
 なあんだ。お前、そんなんだったんだな。
 多分、私は、ほっとしたんでしょう。そして実家の池の魚が泳ぐさまや水の跳ねる音、庭の鳥が羽ばたくさまや木々の騒ぐ音、猫がにゃあと鳴くさまや御簾の揺れる音、人間が争ったり威張ったり諦めたりするさまと心臓の音を、遠くからただ眺めておりました。
 そこに私は光る君を見ました。光る君は私を見つめています。見つめられて見つめ返す。見つめられて光る君は私に気がつかない。気づかずに、じっと私を、かつての私を、私の体を見つめています。
 光る君。
 そっと声をかけてみます。光る君は私に気がつかない。
 光る君。
 恐る恐る触れてみます。
 いいえ、それはなりません!私のような物が光る君に触れてはならないのです!光る君のためにも尚の事、ならぬのです!
 ああ、本当に、このようなことになると知っていたのなら、私は何があっても死ななかったのに…。
 その時、私は死の絶対的な重さと絶望的な冷たさを思い知りました。

 母は泣きわめいています。お傍の者たちも泣いています。光る君は泣きません。袴着を終えたばかりの幼い子のその様子に人々は「おいたわしい」と言っては泣きます。言われる光る君は泣きません。何故って、当たり前じゃないですか。
 人は何故、泣くのでしょうか。按察使大納言であった父が死んだ時、私は父の死体を茶碗や櫛と同じ物だと思わずに泣きました。母も泣いていました。周りの人々も上手い具合に泣いていました。
 その経験から見ると、どうやら、個人的と社会的、感情と礼儀、この二点と二点が絡み合って、それぞれの程度に応じて、私たち人間は泣いているようなのです。ゆえに光る君は泣きません。
 しかし今回の私が死んだ際の母の泣き方は、父の按察使大納言が死んだ時と何かしら違うのです。私は母らしくない姿を眺めながら次第に、これはおかしいぞ、と思い始めました。どこか大仰しいのです。芝居がかっているのです。
「私も娘と一緒に燃えて煙となって空に昇りたい」
 こういう歌、昔ありましたよね。そう、我が母は火葬場まで行く!と言って、女房たちの牛車に勇んで乗り込みました。お涙頂戴の見せ場でした。
 普通、親は火葬場に入ってはいけないものらしいのです。子が親に先立つのは逆縁ですから手厚く葬ってはいけない、というのが理由です。
 でも我が母は財を投じて葬儀を行いました。地位のある陰陽師に日取り事を占わせ、地位のある僧侶に読経をさせました。遺体の清め方も入念にして、最大手の専門家に依頼し、手配した納棺も相当なものでした。しきたりに則って、二条院の裏手門から出発し、都を出ました。
 私も一緒に参ります。私、都の外、初めて。ここが糺の森。ここが鴨川。聞いたことある。面白い景色。
 あ、到着の模様です。ここが愛宕。
 火の準備が整っています。膨大な量の薪です。一晩かけて焼くのですから、財産がないとできません。実績豊富な焼きの集団も来ています。火葬は超てっぺんの富裕層しかできない相談です。  
 これだけのことを我が母は冷静にやってのけたのです。そしてわあわあ正体も失わんばかりに泣いているのです。何なのでしょう。でもいいのです。さあ、始まりました。私の興味はこっちだったのですから。
 燃える私。その音、匂い、熱、炎の色、赤、黒、空気の揺らぎ、血の揺らぎ、煙の流れ、青、白、骨、意思と思考と臓器と灰と、私と森羅万象の境目、私の記憶、…の記憶。
 突然、向こうの方で、わあっという、どよめきが起こりました。母が牛車から転げ落ちそうになったようです。それ、言わんこっちゃない、と人が集まっています。ちょっと笑い声もします。
「娘がまだ生きていると思えてならない私のこの迷いを断ち切るためにも、私はこれを見届けなければならないのです」
 名場面です。さあ、皆さん、感動して下さい。私は残念ですが興味ありません。私の興味はこっち。
 煙は空に向かって昇って行きます。あの煙も私です。昇るほどに細く細く、薄く薄く、消え入りようとしています。その結末を探そうと、ずうっと目を凝らし続けたけれど、境目はいつまでも見えませんでした。
 夜通しの荼毘を終えて皆で骨を拾いました。光る君も祖母君と一緒にお橋を使って骨を拾いました。そうして出来上がった骨壺はもはや自分とは思えませんでした。


 


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