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彼女たち

これは私が出会った女性たちの中で特に印象的な方々について書いたものです。知らない間に逝ってしまった彼女、今なお仲良くしていただいている方、そして、血縁者なのに未だに分かり合えない者・・・。


1 追悼

 彼女と出会ったのは三十年前、職場の福祉施設でのことだった。
 
 先に介護職として2年ほど勤務していたある時、施設で入所者向けの音楽活動を組むことになり、ピアノ講師をしていたという彼女を施設長が職員として採用した。
 細身の長身でセミロングの髪がよく似合う、ほがらかな印象の女性だった。私とは同世代で話しもよく合ったから自然と仲良くなっていた。

 彼女を中心に音楽活動がすぐに始まった。
 それは入所者の単なるレクレーションとしてではなく、人前で演奏することを目的としたものだった。 
 丁寧な彼女の指導の下、すぐに地元のイベントに出場するまでになった。
 キーボード、ドラム、パーカッション、ギター、歌も入って十人ほどのバンドだ。 
 こんな機会が得られるとは誰も思っていなかった。
 創作活動としては、絵画や手芸などで自己表現することはあっても、大勢の前で演奏を披露するなどということが、それまで私たちの施設にはなかったのだ。
 
 劇的にみんなが生き生きとし始めた。
 淡々と一日を過ごしていた人々が、次のイベントを目標に大いに盛り上がっていた。 
 自己を表現する欲求と達成感からの喜びは誰にとっても存在する。たとえ知的な発達障害を負っていたとしても。たとえ高齢になっていても。
 
 彼女は熱心だった。早くに離婚し二人の幼い子どもを育てながら、実家の両親もサポートしながら。
 そうひとりで何年も熱心に取り組んでいたのだ。母として、娘として、職員として、音楽講師として。
 一度だけ一緒にお酒を飲みカラオケに行く機会があったが、その後しばらくして私は職場を辞め、遠くに引っ越したため彼女とはそれ以来会うこともなかった。

 5年前彼女は亡くなっていた。
 亡くなっていたことを私は知らなかった。 
 成人し芸術活動をしている息子さんのSNSをたまたま見て知ったのだ。
 珍しい苗字だったから気になったのだ。もしかしてと覗いてみたら。 
 衝撃を受けた。やはりそこに彼女の名前があったのだ。
 彼は母親の死を淡々と語っていた。そこから芸術の発想を得たことも。
 画面の文面を読みながらいつしかわたしは号泣していた。
 自ら死を選んだのだという。

 亡くなる何年か前から実家の両親の介護も加わったが、老人施設などの手配も済み、子どもたちも成人しやっとこれから自分の人生を楽しめる時期に入った頃だったという。 
 自ら死を選んだ理由は分からない。長い間苦しんでいたのか、突発的なことだったのか。それは息子である彼にも分からないとあった。
 
 遠いあの日、カラオケで竹内まりあを歌うわたしに、「私は広瀬香美の方が好き」といって、彼女が歌ってくれたのは『ロマンスの神様』。十八番だといっていた。 
 彼女は大学時代、知人数人でバンドを組み、ヤマハのポプコンにも出場したのだと、はにかみながら教えてくれたのもその時だった。
 引っ越したとき一度だけ電話をくれた。私も離婚し新しいパートナーと再出発していた時期だった。ひとりで遠くへ引っ越したのだと思ったようで、私を心配してくれていたのだ。
「再婚したの」「そう、そうなんだ。それはよかったよ」
 電話口の声を今も思い出す。 

 忙しく暮らしているのだと思っていた。
 彼女は、「音楽で高齢者や障害のある人たちの生活の質を上げる」を目指し、ずい分前から「音楽療法士」としても活動していた。県内の老人施設などからも要請があり各地を廻っていたのだ。
 そして変わらずずっと動き回っているのだと思っていた。
 音楽を通して様々な人たちに寄り添っていた彼女。隣でそのひたむきな眼差しを見るたびに私は心打たれていた。
 
 わたしは彼女が好きだった。
 お互いの生活に立ち入った話はしなかったけれど、お互いが抱えているものには気付いていた。
 慰め合うなんてしなかった。愚痴を言い合うこともなかった。 
 わたしは彼女が好きだったよ。彼女の凛とした後ろ姿が。



2 友人または同志

 彼女はうんと年の離れた友人だ。(3年前傘寿を迎えたよう)
 五十年前大学職員を辞し自然農法の運動に参加し同時に陶芸家の道を志した人だ。
 今、海と山に囲まれた土地にご主人と工房を建てて暮らしている。
 隣が娘さん一家というそこでの暮らしはもう二十年以上になるという。

 彼女とはずい分前に参加した地元の読書会で出会った。
 陶芸家という職業に馴染みがなく興味津々でお付き合いをさせてもらっていた。
 その後事情があって私は一旦退会するが10年前復帰し再会した。
 復帰してからの会は以前に比べなんとも覇気がなく何だか後ろ向きに見えた。
 それでも彼女にはなぜか以前よりも本に対する姿勢に共感でき、毎回会えるのを楽しみにしていた。私は彼女のその旺盛な知識欲に惹かれた。 
 仏語、古代文字、東南アジアへのボランティア・・・。
 高いアンテナを張り好奇心の赴くままに進む彼女に惹かれた。 
 なぜだか彼女も私の話しに興味を持ってくれて大いにふたりで盛り上がった。
 で、彼女の発案により「学ぶ会」を始めることになった。ふたりきりの。

 会の名前を当初「アンラン」とした。(その後改名したが)
 それは、仏語勉強中の彼女が教えてくれた「学びあう」という意味の「アンラーン」それがとてもぴったりだと思ったからだ。
 その後ネット投稿を始めるにあたりペンネームを思いつけなかった私はそれを拝借した。(それが「あんらん。」の始まりだ)

「学びあう」。「勉強する」「学習する」とは違う「学び」「学ぶ」。
 語感がいいよね。とふたりで笑った。 
 ひとりで「学ぶ」ことも重要だが、お互いが得たものを持ち寄り語り合う。それがいろんな気づきになりつながり視野が広がる。 
 滋養のある食事をした気分になり心が満たされる。
 時間を忘れて語り合うことの楽しさは至福の時だった。

 これまでの人生で楽しいことばかりでは決してなかっただろうが、彼女はどんなことも「学び」に変えるしなやかさを持っている。
 語り始めると私たちは時間を忘れ、気付けばいつも5、6時間を超えている。おばさんふたりが何をそんなに熱く語っているのだろうとたぶん周りは(家族も含めて)不思議だろう。

 会も今年で4年目になった。
 再会して《《出会い直す》》なんてこともあるのだなとつくづく人の縁の妙を感じている。 
 読書のジャンルが児童文学と時代小説に偏っていた私に彼女は、エッセイや学術書、海外で活躍する日本人作家の世界を見せてくれた。
 
 イタリアの風景を綴る内田洋子の文学的エッセイ、ドイツで活躍する今一番日本人でノーベル文学賞に近いといわれる多和田葉子、アメリカでは夏目漱石の『明暗』続編を手掛けた水村美苗。チェコのカレル・チャペック、イタリアのジャンニ・ロダーリ等々・・・
 
 わたしの本の世界を広げてくれた彼女は友人であり同志なのだ。



3 母だった彼女

 今年90歳になる私の母は、今、弟の勤める老人施設に入所している。
 寝たきりで認知症でもある彼女は、私が誰だかまったく分からない。
 国内とはいえ遠く離れた土地に暮らす私は5、6年に一度しか会いに行かないからそれも仕方のないことだ。ただ不思議と電話の声は分かるらしい。
 
 彼女がまだ若い母親だった頃、私が小学五年生くらいのある日。
 季節外れの旅行に連れて行ってもらったことがある。弟と三人だった。
 学校が休みの時期ではない。とても寒かったのを覚えている。 
 もうひとつ覚えているのは寂しい遊園地の景色。
 周りには私たち家族と数えるくらいの人影しかなかった。
 
 外に設置された舞台ではイベントが行われていた。
 席についたとたん始まったのは「カモン、スネーク!」のセリフで進む子供だましの手品?のようなもの。 
 会議用の長机の上に箱が三つ。机の下は布で覆われ人がそこにいるのは丸わかりだった。箱を叩いてぬいぐるみの蛇を出し入れし、観客に次にどこに蛇がいるのかを当てさせるというものだった。 
 物悲しさだけが漂い、私は早く帰りたくて仕方なかった。
 母はなぜこんなところに私たちを連れてきたのか。どうやら父には内緒だったようだが。まったくちっとも嬉しくも楽しくもない旅だった。
 
 妙に記憶に残っていた。
 後年、弟から「母さんはあの時、俺たちと心中しようとしていたんだ」と聞かされた。私はそのとき「ふーん」と返事をしただけ。
 弟はきっと私の反応の方がショックだったのだろう、その話はそれで終わってしまった。 
 両親の不和は分かっていた。父のどうしようもない病気のことや、問題は母の性格にもあった。他人には到底話せないことがそれまで数々家の中で起こっていたのだ。

 そんな中、私が中学卒業直前、まず父が倒れ半身不随になり、翌年母も倒れ入院手術となった。
 今でいうヤングケアラーだった私は、高校受験時上位の成績だったにも関わらず、家の中が落ち着いた頃、学校へ行けなくなり成績が急降下する。 
 父は療養施設への入所が決まったが、私は家事をしながら入院中の母の身の回りの世話をしていたのだ。
 ある朝突然起き上がれなくなっていた。今思えば「燃え尽き症候群」とでもいうのだろう。登校拒否という言葉なんてなかった時代だったから、怠け者のレッテルを貼られた。
 担任からは「これ以上休むと学校は退学になる」といわれた。心配する声はどこからもなくただそれだけ。それでも補習補習で卒業にはこぎつけたが。
 
 青春なんて言葉は私の中にはない。
 それはきっと戦争を経験した両親もそうだっただろう。
 母は以前、小学校の高学年まで授業そっちのけで、校庭を耕し芋を植えてばかりいたと話していた。お腹いっぱい食べることが最重要課題だったのだ。 
 彼女のことが許せないときがある。彼女のことを許そうと思うときもある。彼女なりに頑張ってきたのだと思うこともあるにはある。
 
 彼女のことが好きか嫌いかと聞かれたら私は答えられない。
 親とはそういうものなのだろうか。 
 自分が親になったら親の気持ちがよく分かると人はいうが、親になっても分からなかった。未だに分からないのだ。
 ただ眠るとき「幸せな時間が母にも訪れますように」と祈っている私もいる。

ご高覧賜りありがとうございます。

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