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銀の鯨 第七話

ヒデと秀

 空の上、雲海に身をまかせていた鯨は、中央の山の頂に身を寄せていた。
 そして、一度ボートのふたりに目を向けると「きゅーーーーんっ」とひと声鳴き、そのまま雲間に消えていった。
 それっきりだった。それっきり、ふっつり気配が消えた。
 さっきまでは潜っていても雲の揺れる波紋でどこにいるのか分かったのだが、辺りはまったくの静寂。波ひとつ立たない。風さえなかった。
 誠とヒデはしばらく目を凝らしていたが、鯨はもう姿を現すことはなかった。
 いつの間にか海の上はすっかり雲が晴れていた。
 残っているのは島の真ん中、山並の周りだけだった。
 日が沈んでいた。
 月が、欠けたところのない大きな月が、今、水平線から昇ってくるところだった。
「くじら、どこへいっちゃったんだろう」
「すみかに、帰ったみたいだな」
「すみか?おうちのこと?くじらのおうちは、どこにあるの?」
「それは、オレにもわかんない」
「ねえ、ヒデはあのくじらのこと、だれにおしえてもらったの?」
「おしえてもらったんじゃないんだ。
 もう、うんと前、山の上に一度だけ、見たことがあったんだ」
 あのときオレは死にそうになってたけどな。 
 あとのヒデの呟きは誠には聞こえなかったようだ。 
「えっ?」「いや、なんでもない」
 そのヒデの横顔に一瞬別の誰かの顔が重なったが、誠はそれに気が付かなかった。
「もう、くじらには、会えないの?」
「いつかまた、会えるさ。
 そう、いつかまた一緒に、会いにこよう。
 それにほら、こんな月の夜も、いいもんだ」
 見上げると月のきれいな青い夜だった。
「そう、だね」でも、
 また会えるんだろうか。もうこれっきりじゃないのか。
 誠は突然、泣きたくなるくらいの切なさに襲われた。
 胸が押しつぶされそうになり涙が溢れてくる。
 とめどなく、あとからあとから溢れてくる。
 ヒデはそんな誠をそっと見守っていた。
 しばらくすると、 
「ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ、ザザーッ」
 波の音が聞こえてきた。
 高い空の上なのに波の音がしていた。
「ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ、ザザーッ」
 また風が出ていた。雲海の波だったのだ。
 規則正しい響きが心地いい。
 しばらくふたり波の音に身を任せていた。
 次第に誠の胸の疼きも消えていく。
「ほーっ」とひとつ、誠はため息をついた。
「お月さま、きれいだね」
「うん、ホントに、きれいだな」
 天の川が東にかかっていた。満天の星も瞬いている。
 流れ星がひとつふたつ西の空に消えていった。
 月も星も手が届きそうなくらい近かった。
 星の欠片かけらでもつかまえられないかなと、誠はそう思った。 
 だからついうっかり立ち上がって、星に手を伸ばしてしまったのだ。
「だめだ、まこと」「あっ、」誠の体がぐらりと傾き、慌てて引き寄せようとヒデも立ち上がってしまった。
 ボートがかしいだ。ひっくり返ってそのまま雲海から落下していく。
「うわあああああっー!」「ああああああー!」 
 途中、山肌にむき出しの大岩に一度バウンドした。
 そのとき、小さな小屋のようなものを誠は見た。
 思わず手を伸ばしてつかまろうとしたが空をかき、代わりに紙の束のようなものを手にして、そのまま真っ逆さまに落ちていった。

 
 そして、
「・・・ま、こ、と・・・ごめ、ん、よ・・・」遠くで声がする。
「えっ、だ、れ?な、に?」よく聞き取れない。
 何度か同じやり取りのあと、
「ごめん、ごめんなまこと。オレのせいでこんなことになって、
 ホントに、ごめんな、まこと」
 やっとはっきり聞き取ることができた。
 ヒデだった。ずっと誠に謝っていたのだ。
「いいんだ、よ。ヒデ。ぼく、たのし、かっ、たよ。
 あり、が、とう、ヒデ。くじら、みせて、くれて・・・」
 ほんの少し光を感じて誠は目を開けようとしたのだが、眠くて眠くて仕方なかった。たまらずすぐに眠りに落ちていく。
 時々耳元で誠を呼ぶ母の声や、ガチャガチャいう金属音がした。
 その度に、躰のあちこちにいいようのない熱さや痛み、そうかと思うと耐えられないくらいの寒さを感じたが、すぐにまたとんでもなく眠くなる。
―――ごめんね、おかあさん。ぼく、すっごくねむいんだよ。
「誠!誠しっかりして!」母が叫んでいる。悲痛な声だった。
 病院のベッドに横たわる五歳の自分を、誠は脇で眺めていた。
 ぐるぐる巻きの包帯、左右から伸びている管や電子機器、ちいさな躰で耐えているその姿があまりに痛々しい。
 自分のことながら目をそむけたくなった。
 傍らかたわらの母は、五歳の誠以上に苦しそうな表情だった。
 母の胸の内もまた痛々しかった。
 母の父は今回の事故で大怪我を負った。同じ日に祖父を亡くし、やっと発見された息子も生死の境をさまよっている。
 にも関わらずそれに加えて、やって来た夫や姑の叱責の声にひとり耐えていたのだ。
 新聞やテレビのニュースで、行方不明の少年の親として映し出された母真由美だったが、その隣にいる男性を、誠の大怪我と共に父たちは問題にした。
 偶然あの日再会しただけ、一緒に誠を心配してくれただけのあの幼馴染の男性を、誤って誠の父真由美の夫と報じていたからだ。
 それを訂正する間もなかったのだが、そこに夫は激怒していた。
「いくら、天候不良だったからって、お前が付いていながらこのざまはなんだ。しかもあの男はだれだ。お前まさか、あの男と・・・」
「間違ったニュースの記事を訂正もしないなんて、なんてことなの。
 そもそも息子の非常時に、知らない男と一緒だったなんて、恥ずかしい」
 母は弁解することもなくただ耐えていた。 
 
 昔を思い出してみれば、7歳くらいからの記憶しかないが、あの頃の家の中の不協和音を誠は確かに感じていた。
 母が父や父方の祖父祖母、父方の親戚たちと、どこかそりが合わないのを感じていた。親類縁者が一堂に会したとき顕著だった。
 母はみんなの輪に入れなかった。いつも部屋の隅だったり、台所に始終立っていたりしていた。
 それがなぜなのか未だに分からない。ただ、出身地や最終学歴のせいだったようでもあるが、それでも母は常に毅然としていた。
 受け流し、いなし、笑ってすませていた。それがまた父にとっては気にくわないところではあったのだろう。
 今度もそうなのだ。もっと自分を頼ってほしかったのだろう。母の気丈さを可愛げのなさと疎ましく思っていたのだろう。
 病室のパイプ椅子で母は耐えていた。ひとりでただ耐えていた。
 母のこの情景に胸が痛んだ。
 誠は、これはやはり自分のせいなのだと思った。 
 
 医療関係者たちから漏れ聞こえてくることで分かったのだが、結局、誠の行方不明は天候の急変による事故ということになっていた。 
 荒れた天候の中海に流され、捜索者の目に触れることのない磯の隙間に打ち上げられ、五日間そのままの状態だったのだろうとそういうことになっていた。
 取り合えず一連の顛末てんまつは理解できたがまだ謎が残っている。
 その時、誠の腕を誰かが掴んだ。
 病室の情景が薄れる中振り返るとそこに、通夜の夜追いかけたあの少年がいた。
「ヒデ、」「う、ん」
「もしかして、きみは、僕のひいお祖父ちゃん、なの?」
 ヒデは、秀正のヒデなのだと、ふと気付いたのだ。
「ホントに、ごめん。こんなことになるなんて。
 みんなオレのせいだ(俺のせいだ)」
 俯くヒデの横顔にあの枯れた老人の顔が重なって、ふたつの顔が交互に現れていた。声もふたつ。少年ヒデと秀正老人とが重なっていた。
「本当に、ひいお祖父ちゃんだったのか」
 これはいったいどういうことなのか。
「嬉しかったんだよ、俺は。
 不自由なこの体で五十年生きてきたが、 
 こんな俺にもひ孫ができたんだ。本当に、嬉しかった」
 だから、あの当時、あんな家の中で、お前も真由美も毎日耐えているのかと思うと居てもたってもいられなくて、何とか励ましたかったんだ。
 いや違う、俺は(オレは)ただ、最後に身軽な躰になって、お前と一緒に(ただ、いっしょに)遊びたかった。それだけだったんだ。
 秀正老人、ひいお祖父ちゃんはそう言うとふっと消えてしまった。
―――えっ、まだだ、まだわからない事があるっていうのに。
 誠は途方に暮れた。

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