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掌編「淹れる」

毎朝 コーヒーを淹れる
季節が巡っても
部屋が変わっても
目覚めが良くても 悪くても
悔しくても

味気のないコーヒーを
何杯 淹れてきただろう
何杯 飲んできただろう

豆を挽く
ふたり分 粗目に挽く
深く煎った豆が砕け 香ばしさが漂う
キミのブレンドは すごくおいしかった
近所のカフェなんかよりも ずっとね
キミを真似て ゆっくり湯を注ぐ
ポットを傾けながら思う
ボクのこと わかってたかな
手を握ってたの わかってたのかな
魔法のキス 信じてなかったのかな

ボクたちは 別々のベッドで寝ることになった
寝るって ふたりで寝ることだったそうよ
だから わざわざ ひとり寝っていうんだって

キミは馴れないベッドで
ボクはボクたちのベッドで

取り急ぎお知らせいたします
寝間着を裏表に着ると
夢で 会いたい人に会えるんだってさ

力が抜けていったのは
キミの指だったのかな
ボクの指だったのかな
魔法のキス ボクは信じてたのに

椅子をひとつ減らせばいいのよ
マグをひとつ減らせばいいのよ
白いのを残せばいいのよ
心を小さくすればいいのよ

ボクはひとりに慣れる練習が嫌いだ
なので キミを思い出にできていない

すぐに当てちゃうよ
高を括ってた
何種類もの豆を買ってきて
あれこれ いろいろ組み合わせてみたけど
近づいたり 遠ざかったり
キミのブレンドには まだ たどり着けていない

秘密だから おいしいのよ

ベッドに腰を下ろし 髪を編んでいた
なんだか すっかり馴染んでいるように見える
そんなキミを見るにつけ 苦しい気持ちに襲われる
柔らかそうな頬の稜線に 鼻先がのぞいていた
遠くを見ているのか 何を思っているんだろう
治療が進んだせいかな コーヒー 飲めなくなっちゃった
味が分かんないの ちっともおいしくないの
カーテンを透かして 陽光はどこまでも穏やかだ
良くなっちゃえ
このまま 治っちゃえ

空気を入れ替えようか 少しだけ窓を開けた 
ひんやりとした風に
病人といえば コレよね 
グレーのカーディガンを羽織りながら
ほら 原節子みたいでしょ と笑った
ロッカーの中には お気に入りの白シャツやリーバイスが掛けられている
コンバースだって置いてある
幸福とか 不幸とか
選ぶものじゃないのね
一緒に歩いてるものなのよ
いつだったっけ 小津を観たあと そんな話をしたよね

吹き残っていた風が キミをモノクロに変える
ボクの前を はすっぱな予感が過ぎった
ずいぶんお化粧してないな 時々ね リップを塗るくらい
心許ない気持ちを悟られぬよう 庭に目を遣った
見慣れない花が揺れていた

あの花 なんていうのかな
あれはね チョコレートコスモス
ワタシ 好きよ
知れてよかった
チョコレートコスモスも
キミが好きなことも

ねぇ コーヒー飲みたいな

目が覚める
キミの声が耳の奥に残っている
キミに届く声が欲しい
お湯を沸かすから ちょっと待っててね
そう伝えるための ただそれだけの

庭先に目を移す
チョコレートコスモスは 今日も静かだ
誰のためでもなく ただ咲いているんだろう
明るい色彩は口を軽くするけど
この花はそうじゃない
ボクは ぽつりぽつりと
短い言葉を足したり引いたりする
ずいぶん長いこと咲いてるよ
最近になってわかったんだけど 少し甘い香りがするんだね
キミの匂いを思い出したよ
萎れるころには 首が折れたりするのかな
来年も咲いてくれるかな
そんな小さな話を 足したり引いたり

藍のマグ
その向こうに
華奢ななで肩が浮かぶ

どう おいしいだろ

実はね コーヒー屋のご主人に聞いてみたんだ
でも 教えてくれなかったよ
キミとの約束だからって
弱ったなという顔をしてさ
聞かなきゃよかったかな
何だか申し訳ない気持ちになったよ

秘密だから おいしいのよ
おかわり あるわよ

豆選びで悩むのを しばらく止めてみた
棚に並ぶ豆を 右の端からひとつ 左側からふたつずつ
深めの焙煎でお願いすることにしてみた
諦めたわけじゃないよ
ちょっとね コーヒーブレイクさ

豆の並び いつもと違いませんか
焙煎師のご主人は ただの気まぐれです と目を細めた

藍のマグ 白のマグ
苦味 甘味
ひと口 ふた口
きっと 口元はほころんでいる
それから もうひと口
えくぼを浮かべ おいしいと言う


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