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4/11/2020: 大切な日本語なのに

[今日の短歌]

海越えて歳月経ても今もなおふと口をつく故郷の言葉

20年以上もハワイに住み、家族の誰もが日本語を話さない環境のなか、自分の故郷の言葉を活用して仕事ができるのは、本当に幸せな事だと思っています。私の仕事は法律翻訳で、日本人の依頼人とアメリカ人弁護士の橋渡しをすること。日本語で書かれた書類やメールを英語に訳したり、また依頼人のために、英語を日本語に訳したり。私はあくまでも両者を繋ぐ道具ですので、いかに正確に情報を伝えるかが重要になります。

日本語のメールや書簡を訳すときは、主語や結論がハッキリと書かれていない事が非常に多く、行間を読むことが必要となります。これは、如何に語学に優れていようとも、英語圏で育った英語話者が理解するのは、非常に難しいかと思われます。少ない言葉数の背後に豊かな世界観を背負った、成熟した言語だと思っています。

逆に英語の書簡は最初に主題が書かれ、文章自体はまるで数式のように明快ですが、書き手の癖や言葉選びのセンスにより、如何様にも変化します。日本語に直すと、しばしば非常に無味乾燥なものとなってしまいます。が、受け取り手の成熟度を問わない、非常に親切な言語です。

このように、両者其々に良いところがたくさんあり、いくらでも美しく磨き上げることができる言葉ですが、横文字を多用した日本語は、聞いていて見ていてどうもスッキリするものではありません。

ビジネス案件に関するメールなどには、独特の略し方や独自の意味を持つ和製英語が大量に散りばめられており、その都度、せっかくの美しい日本語をなぜ台無しにしてしまうのかと、残念に思います。まだ英語としての意味が正しければ、問題は無いのですが。

って、何だか頑固オヤジの繰り言のようになってしまいましたが。特に昨今のコロナ関連の報道を見るにつけ、せっかくの日本語なのに、なぜわざわざ和製英語を散りばめるのか、大切な事こそ誰でもわかるように簡単かつ明快な言葉で伝えないといけないのでは? と思うわけです。

言葉は生き物ですから、その時々の世相に合わせて変化していくのは当たり前のこと。本来の意味とは大きくかけ離れた和製英語だって、文化の一部だということは勿論わかっていますし、むしろ楽しんでいます。

ただ、災害時や人々の上に立つ人が大切な事を伝えるときには、少なくとも和製英語は控え、明快で美しい日本語を使うべきでは? せっかくの成熟した言語なのに、やや勿体無い気がします。

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