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ありのまま見る冥想20230222

ありのままに見る

2023年2月8日から書き始める

■ヴィパーサナ瞑想

 wikipediaでは、ヴィパーサナ瞑想の項目で、「ヴィパッサナー瞑想(ヴィパッサナーめいそう、巴: vipassanā-bhāvanā)は、ナーマ(こころのはたらき、漢訳: 名〔みょう〕)とルーパ(物質、漢訳: 色〔しき〕)を観察することによって、仏教において真理とされる無常・苦・無我を洞察する瞑想(バーヴァナー)である[1]。アメリカでは仏教色を排した実践もあり、インサイトメディテーションとも呼ばれる[2][3]。ヴィパッサナー(巴: vipassanā[注釈 1], ウィパッサナーとも[4])は「観察する」を意味する[5]。また、ヴィパッサナー(巴: vi-passanā)とは「分けて観る」、「物事をあるがままに見る」という意味である[要出典]。」と書かれている。

 ヴィパーサナ瞑想について、詳しく学習したり、読んだことはないので、ヴィパーサナ瞑想の基本は、1.ありのままに見る。2.連想に走らないという2点で考えることにしている。上記の説明では、心の働きのナーマ、物質のルーパを両方見ると書かれているので、1のありのままに見るというのは、この心と物質のふたつに振り分けなくてはならない。また2の連想は、心の働きによってもたらされるのではないか。連想に無意識だと、自動的に繰り出される連想に支配されることから免れない。心に一体化(同一化)するのでなく、自分の意識と心を切り離し、ナーマを観察することにより、ここでこのように連想が働き始めているということを見ることができるのではないか。
 わたしは何事も7つのコスモスで考えるので、ルーパの物質を観察するという時、物質は因果の最終的な段階で作られたものであり、究極の因としての1なるもの、ブラフマン、プロトコスモスが自己分割を繰り返して、それこそグルジエフの水素論のように、振動密度が落ちて、物質密度が増えて、分割数が増加した段階で、物質ができあがると考える。そして物質の内訳は、明確には言いにくいが、火の96、風192、水384、土768と続き、さらに分割が続く。これらの分類は、小石並べ算としての、加算式でなく、砂描き算として、円の内部分割による数の増加だ。つまり総量としての円は、最初から最後まで変わらない。

 ナーマとしての心は物質よりも上にあるもので、思考がH48とか、もっと素早い直感的なものがH24とかあるが、心と言われると曖昧過ぎて、特定はできない。しかし心理的なもの、気持ち、感情などだと考えるならば、物質よりも上にあるもので、特定の振動の水素を指定しないほうがいい。なぜなら、心の座は人さまざまで、自我の座の位置によって、心のありかたは大きく変わる。
 物質の定義は、グルジエフが言うところによると、物質として認識できるのはH96まで。それより上は物質には認定できない。しかしこれは地球上に住んでいる人が見た物質であり、宇宙にはさまざな振動の存在がいて、それらから見た物質は違う。小天使は、H3-12-48の三つ組だと言われているが、小天使は人間の思考を、レンガのように重たく動かない物質だとみなしている。なのでつかんでどこかに運ぶこともある。人間も、アサジョーリの言うように、次々と自己同一化を切り離し、思考はわたしではない、という段階に来たら、意識が思考を対象化できるようになり、すると、思考をここからあそこに運ぶということもできるようになる。
 思考に同一化して、思考を自分だと考えている人は、この思考を運ぶ現場で、昏睡しているので、何が起きているかわからない。たとえば、歩いていて、急に自分の思考が変わった、交換されたという時でも、「いま考えが変わった」と思うかもしれないが、小天使が、ちょっと思考をどけたのかもしれず、それには気がつかない。最近流行のスマホ認知症は、脳のワーキングメモリが、情報のごみ屋敷化によっていっぱいになり、機能不全に陥ることだと思うが、情報を系統だててコンマリのように整理すると、案外とワーキングメモリは、空きが出る。わたしはこれを右脳を空っぽにするという言い方をしたが、そこ、邪魔なので、どけますよと小天使が思考を左の部屋にどけた時、思考に同一化していない人は、いま、急にどけられたということがはっきりわかる。どころか、段ボールを床に置いた時のドシンという音さえ聞こえるようだ。思考に同一化していない人は、思考を弄り回すことも多く、思考を絶対のものとみなしておらず、むしろ思考に対して気軽さを感じる。思考を見ることのできる人は、ありのままの現実を見るという時、思考が動いているのを現実と認識する。
 物事をあるがままに見るというのが、人によって、宇宙の中での存在位置の違いによって、まったく違うということがあきらかなので、ヴィパーサナ瞑想講習会はできない。あるいはこの講習会の参加者が三人くらいならば、同じような人を集めてできるかもしれない。人数が増加するにつれて、現実の定義を曖昧にして、うやむやなまま続けなくてはならなくなるが、これはアーノルドミンデルのいう「合意的現実」に関しても同じで、わたしは何人が合意した現実?と聞かなくてはならないと思っているし、大乗仏教も、だいたいターゲットは何人なのか考える。1000人ならば、千乗仏教だ。

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