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徒然なるままに:善念

トンデモ医師の内海聡先生の記事から・・・

問題の原因はすべて自分にある
こんな世界で私たちは何を考えて生きていけばよいのか。スピリチュアルや宗教など信じていない私だが、宗教などが述べる「この世は修行の場」という考え自体は、間違っていないのかもしれない。もしそうであるならば、この世界で修業を達成できるかどうかの境目は、己の中に必ず存在する依存心や反動を認めたうえで、いかに自己の真の軸を確立し、自己アイデンティティを確立するか、そして自分の中に大きな目的を設定できるかどうかであろう。
お金のあるなし、友達が多い少ない、名誉があるとかないとかそういうことではない。自己の真の軸があれば他人の影響ばかり受けることもないし、他人の価値観に振り回されることもない。変に斜に構える必要もなくなり、被害者意識にとらわれることも少なくなる。自分こそ周囲への加害者であり、人類が地球への究極の加害者だと自覚できるからこそ、他人に対しても非常に許容的になり、逆説的に人々は和平的になれる。
「依存」の反対は「自立」であり、私が行う治療の初歩中の初歩は「依存からの脱却」である。自立が難しいだけでなく、本質的に自立できる人はいないかもしれないことはすでに述べた。個人だろうが、薬物中毒者だろうが、そうでなかろうが、みな依存症だ。「社会」「国家」「人類」、いまや例外なくみな重度の依存症なのである。しかし自立を目指す意図さえないというのは問題であろう。
依存症から少しでも脱却して自分の軸を作っていくための初歩は、現実を直視できるかどうかである。
日〇人は島国根性か共存性のせいか自虐的な民族性を持っているので、無理して自虐史観を否定するより、自虐史観を持って世界に貢献したほうがよほどよい。自虐史観はある意味自分たちが加害者だという自覚につながっているからだ。自虐的な観点が自軸を作り、それにより行動が生まれる。自軸の確立は行動によってしか評価できない。本物の自軸を確立するためには「自分が最低だといかに自覚できるか」がカギだ。自虐史観を否定して被害者面ばかり装い、日本は素晴らしいとばかり連呼するネット右翼のような存在が、いかにうっとうしいか、あなたも少しは感じたことがあるはずである。
すべては自分の心のうちから起こるというのは、物質的な病気であれ精神的な病気であれ生き方であれ、さらにいえば社会の不都合であれすべて同じなのである。しかし病人であることを声高に主張する人々、現代のクレクレ君やグーミンなどを観察すればわかるが、ほとんどの治らない人たちは同じ反応、同じ行動パターンを繰り返す。
法則に気付き、自分がすべての問題を作ってきたことを認識し、自らを修正する人はよくなる。だが、あくまで自分は被害者だと主張し、周りのせいにし、逃避し、自己正当化をし続ける人は、病気も置かれている環境も決してよくはならない。
<心の絶対法則より抜粋>

問題の原因はすべて自分にある

確かにその通りです。

なぜなら、この世のすべて、そして自分自身さえも、「今ここ」に在る「現在刹那の思考」が創り出した「現実」だからです。

「今ここ」から過去を振り返れば、善悪、苦楽、喜怒哀楽・・・すべての記憶がカルマと化してギュウギュウに詰まっているように見えます。

「今ここ」から未来を眺めれば、不安や恐怖や絶望だらけに見えるかもしれません。

過去がカルマだらけ、未来が不安と絶望だらけに見えるのは、「今ここ」であるはずの「現在刹那の思考」が四方八方に入り乱れながら暴走しているからです。

「現在刹那の思考」は本来、「今ここ」の一点に在ります。

無我になればなるほど、「現在刹那の思考」と「今ここ」は合致してきます。

無欲になるほどに「現在刹那の思考」の暴走はやわらぎ、無我に到れば、とても躾けられた犬のように、ジッと「今ここ」に在ります。

「今ここ」と「現在刹那の思考」が合致した瞬間、未来には希望しかありません。
未来=希望 ですが、すでに過去も未来も「今ここ」に溶け込んでしまっていますので、もう未来は空と化しています。

過去も「今ここ」に溶け込んでしまいますが、その際、過去に詰まっていたカルマはすべて断ち切られます。

もう善悪も苦楽も喜怒哀楽も無に帰します。

「今ここ」と「現在刹那の思考」が合致した瞬間には、もう如何なるカルマも無いのです。



「現在刹那の思考」は常に変化しています。

「今ここ」と「現在刹那の思考」が合致した瞬間、「現在刹那の思考」の変化である無常は止まります。

「現在刹那の思考」は、もう如何なるカルマも新たに生み出せません。

カルマは「今ここ」についてこられない・・・無に帰するものは、もう「今ここ」では生まれません。なぜなら「無」だから。

未来の希望は、「今ここ」の五善念に溶け込みます。

「今ここ」は無我であり五善念のみですから、五善念が 過去ー現在ー未来という時間の流れを止めている。
五善念が「現在刹那の思考」を「今ここ」に合致させる支え棒となっているとも言えます。


「現在刹那の思考」は無常です。

その「現在刹那の思考」が止まった無常とは、空です。

ならば、空には五善念が満ちあふれています。

五善念=仏性です。

私も仏陀、あなたも仏陀、みんな仏陀 ですから、

誰もが仏性を抱いています。

誰もが「現在刹那の思考」も持っています。

ただ、暴れ馬のように四方八方へ走り回ってはいますが・・・

仏性を抱く。

ヤブユムがそのひとつの現れです。

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なるほど・・・「現在刹那の思考」と「今ここ」を合致できれば、すでに無我の境地なのですから、そこには真の幸せしかありません。

「現在刹那の思考」をいくら説明しても、経典や本を読んでも、僧侶・ラマに教えていただいても・・・百聞は一見に如かず・・・「現在刹那の思考」の一点を見て、立ってみなければ、分からないでしょう。

そのために瞑想三昧、難行苦行が行われてきました。

それは涅槃も同じです。涅槃に立った瞬間、輪廻転生から解脱しています。

「現在刹那の思考」が湧き上がっている一点は、空性にあります。

その一点からは「現在刹那の思考」が光の滴となって四方八方へ飛び出してきています。

その一点に飛び込めば、光明に入れます。

その光明の中で、仏陀さまは静かに瞑想されています。

その仏陀さまと合一すると、瞬時に自分の涅槃が見えます、涅槃に立っています・・・仏陀さまと共に。

知識はとても貴重です。

でも、体験に勝るものはありません。

一度でも、「現在刹那の思考」が止まった瞬間=無我 を体験しておけば、

一度でも、自分の涅槃を体験しておけば、

知識は知恵に変容します。

何より、いつでも無我に到り、涅槃に帰ることができるようになります。

日々、この世で生きていて、

「現在刹那の思考」に立っている限りは、すべては空ですが、

一歩そこから踏み出すと、たちまちすべてがカルマと化します。

でも、大丈夫。

再び「現在刹那の思考」に立てば、すべてのカルマは無に帰しますからね。


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