進学も就職も、ネガティブな選択をして今がある “地理人”今和泉隆行さんのキャリア形成(上)
実在しない街の地図を描く「空想地図」作家であり、地理情報をわかりやすく編集・デザインする活動も行っている “地理人”こと今和泉隆行さん。講演活動なども精力的に行い、活動の幅をどんどん広げている今和泉さんが、どのような経緯でキャリアを形成してきたかをじっくりとうかがいました。聞き手は今和泉さんと親交のあるローカルツーリズム株式会社代表の糀屋総一朗です。
マンガにもゲームにも興味がなかった
糀屋総一朗(以下、――):先日、能町みね子さんの小説「青森トラム」をもとに、能町さんと一緒に空想地図を作っている記事を拝見しました。NHKの番組にも出演されてましたし、活動の幅がどんどん広がってますね。「地図」といって第一想起が地理さん、という感じにもなってきてるんじゃないかなと。
今和泉隆行(以下、地理):正統派でない、サブカル的な意味合いを持つ文脈では私が上がるかもしれないですね。自分は「バラエティ便利素人」だと思ってますから(笑)。
――もともと子供のころから地図が好きだったと以前うかがったことがあるんですが、空想地図でやっていこう!とか、今のような仕事をしたいなと昔から思っていたんですか。
地理:いやいや、全然です!子供の頃はサラリーマンになりたいと思ってましたよ(笑)。自分で空想地図を書き始めたのは7~8歳のころです。その頃って、けっこうみんなよくわからない遊び、自分にしかない世界で遊んでたりする時期だと思うんです。小学校で学年が上がるにつれて、いわゆる「大人が作った、他の人と共有できる趣味」に興味が置き換わっていくんだと思います。
――サッカーとか、ゲームとか、そういったものですね。
地理:そうです。けど、自分の場合はいわゆる一般的な趣味に置き換わらなかったんですよね。たとえば、テレビゲームも全然ハマらなかったですね。家の近くにビックカメラ立川店があって、そこにゲームの体験コーナーがあったんです。「峠」というレーシングゲームがあったんですけど、峠を全然攻めずに、安全運転で走ったんですよ。
――レーシングゲームなのに(笑)。
地理:むしろ、峠の途中に森の中のバス停があって、そこで止まってみて静寂を感じたりとか(笑)。それで満足しちゃう。私は85年生まれの38歳なので、周りの友達はみんなゲームばっかりしてたんですけど、私は友達の家に行ってたまにやればいいや、という感じです。
――なんと。僕は43歳ですが、今思い返すと家には大量のカセットがあったなと思います。スーパーマリオとかもやらなかったんですか?
地理:マリオは1回だけやったことがありますね(笑)。たぶん、競争したくないんだと思います。空想地図はまったく競争がないですからね。
あと、私の特性として「既存のものをトレースするのが苦手」ということがあります。観察は好きなんですけど、流行りにそのまま乗れないというか…。内なるものではなく、外からの影響を受けたものが自分の軸になるのが難しいという感じなんですよね。部活にしても、体育系、文化系と10数個しかないじゃないですか。そこにみんなある程度おさまるのがすごいなと思っていました。
――そうすると、同級生と話が合わないという気もしますね。
地理:スポーツも、ゲームも、マンガもわからないので、全然話題がないんですよね。ドラゴンボールも、名前は知っているし髪の毛がすごいキャラがいる(編集注:超サイヤ人)とかはわかるんですけど、中身のことは全然わかってなくて。社会適応力をどう上げていこうかというのは、その頃から今でもずっと課題に思っています。
「空想地図では食えない」現実を見て進路選択
――空想地図以外にも創作活動はしてたんですか?
地理:中学校ぐらいから大学1、2年ぐらいまでは曲を作ったりもしてましたね。ピアノを習ってたんですけど、発表会が嫌で嫌でたまらなくて…。でも音楽は好きだったんですよね。楽譜を打ち込んだら再生してくれるソフトの存在を知って、自分でも曲を作ってみようかなと思って作ったりしてました。
――空想地図を描いて、曲を作って、となるとすごく創作、アート寄りのイメージなんですが、大学ではアート系には進もうとは思わなかったんですか。
地理:まず、芸大は競争力が必要という点で、競争が苦手な自分には無理だなと。それに空想地図は趣味としてはいいですけど、それで食っていく道が一切見えなかったんです。だから興味のある地図や地理のこと、まちづくりのことなどを就職に活かせればいいなという形で学校を選んでました。
受験勉強では色々失敗して、専修大学で地理学を学ぶことになったんですが、いざ入ってみると卒業後の進路が「教職課程」か「研究者になって大学に残る」しかないと気づきました。そもそも学校というシステムが自分に合ってないのに、このままだと“学校”から抜けられなくなってしまう!と思い、方針変更。
文系でまちづくりに関われるゼミのあるところ、と考え、自分でバイト代を出して編入試験の塾に通い、編入試験を受けて埼玉大学の経済学部に3年から通いました。でも、卒業後はIT企業に勤めたんですよね。
どうせ合わないなら、選択の幅が広い業界に
――そこ、なんでなんですか(笑)。
地理:最初はもちろん、まちづくり系の会社に行きたいと思っていて、大学3年から都市設計コンサルの会社でアルバイトもしていたんです。そこで見たのは、何日も残業や徹夜をして100ページ超のプロポーザルを提出しても、入札が通らなければゼロ、無償労働になってしまう状況でした。
ちょうど私が社会に出ようとしていた2007年から09年頃は、合併により自治体の数がどんどん減って、予算の総量も減って、受注の確率もどんどん下がっている時期でした。1つの案件の規模が大きいがゆえ、1人前になるのには少なくとも5年から8年はかかりそうだとわかってきて、「今、この業界に行くべきじゃないな」と思いました。それで、志望業界を失っちゃって。
そもそも、大学は2つとも合ってなかったので、大学選びで失敗を重ねました。会社選びなんて、もっと全然どうなるかわからないなと思って、「どうせ1回目で合う会社は見つからないだろう」という思考に至りました。
――それはすごい、真理かもしれない。
地理:それで、「取引先の数が多くて業界の幅が広い」という観点から選ぶことにしました。広告、人材、IT、印刷あたりがそれに当てはまりそうだなと思って、もともとFAXの同報をメインにしていた会社で、BtoBのドキュメントコミュニケーション企業になろうとしていた企業に就職しました。ぶっちゃけ、ここまでの選択は全部消去法で来てるんですよ。
――何か一つ突き抜けたものを持っている人って、どんどん自分で突き進んでいってるイメージがあるので、すごい意外でした。
地理:けっこうそのギャップについては言われますね。全然、地図がやりたい!とかそういう感じではなかったんです。
後編では今和泉さんが“地理人”になる過程、そして自分のキャリアへの考え方についてうかがいました。