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幼少期からまちづくりに触れて考えた「市民参加」のまちづくり 森山奈美×糀屋総一朗対談1

ローカルツーリズム株式会社代表取締役・糀屋総一朗と、地域で活躍されている方の対談シリーズです。今回は石川県七尾市で民間のまちづくり会社・株式会社御祓川の代表取締役を務める森山奈美さんをお迎えし、「まちづくり」とは? について語りあいました。

「市民のまちづくり」ってなんだろう?

糀屋:森山さんとは木下斉さん(エリア・イノベーション・アライアンス代表理事)から七尾の和食屋さんで紹介していただいたんですよね。それをきっかけに森山さんの活動を検索し続けたら、地域循環の話とか、自治の問題であるとか、僕の興味範囲にすごくフィットしてて、ぜひお話を伺いたいと思っていたんです。

ーー森山さんが「まちづくり」に興味を持たれたきっかけと言うのはなんだったんですか?

森山:私が中学生の頃「七尾を活性化させよう」ということで「七尾マリンシティ構想」というものが立ち上がったんですが、建設業を営んでいた父もその活動メンバーだったんですよ。自分の家の茶の間がその議論の場になることもあって、大人たちが喧々諤々(けんけんがくがく)やってるのを横で見ているうちに興味を持つようになりました。高校生ぐらいになると、親たちがやっているシンポジウムとかに、高校生ながら1人で参加したりしてましたね。

糀屋:どんなところに興味を持たれたんですか?

森山純粋にまちの未来に向けて活動しているのが「カッコいいな」「面白そうだな」って思っていましたね。ただ、当時感じていたことがあって……親たちは「市民のまちづくり」って言っているので「自分も市民だから一緒にやれる」って思うんですけど、友達を誘うと「七尾なんか何やったって駄目やわいね」みたいな感じで熱量がないんですよ。身銭も切って、時間もエネルギーもかけて、すごく一生懸命にやっている市民がいるんですけど、その一方でそれを冷ややかに見る市民もいる。それで「市民」って何やろ? 「市民のまちづくり」ってなんやろ? みたいな疑問を持ちました。このギャップは何なんだろう? と。

ーーそのギャップの理由は解明できましたか?

森山:これは後からわかったことなんですが、当時「官民一体」という言葉もよく使われていたんですが、その頃の「民」っていうのは「一般市民」というより「民間企業」の「民」と言うニュアンスが強かったんですよ。私が間近で見てた人たちっていうのは地元企業の社長さんたちですからね。「良いまち」を作る事は自分たちの商売を良くすることと表裏一体なんですよ。

私もそういう目線で「官民一体」の「民」の側を見てたんですけれど、それを冷ややかに見てる人たちっていうのは、お客様、消費者側の「市民」感覚なんですよ。誰かが作ってくれるものに対して、文句言ったり、評価したりみたいな人たちだったんだなって。

糀屋:なるほど。

森山:ともあれ、疑問を抱きながらも「私もまちづくりをする人になりたい!」と思っていましたから、高校卒業後は横浜の大学に「都市計画」を学びに行きました。その頃になると「市民のまちづくり」の意味が変わってきていました。1990年代はNPO法が施行されたりして、一市民が、町に対してアクションを起こしていくみたいなことがどんどんと広まっていった時代。「民間企業」ではなくて、「本当の市民のまちづくり」という考え方が台頭してくるんですよ。

ーー時代と共にギャップを感じていた部分が解消されていったんですね。

森山:そうですね。学びに行った横浜は「まちづくりへの市民参加」とか「住民主体のまちづくり」とかの先進地でもあったので、実践的な活動も行われていました。市民が集まってワークショップを開いたりして……。そこで「会社の社長じゃなくてもまちづくりに参加できるんだ」っていう感覚を学んで、七尾に帰ってきたわけですよね。

地元に戻って始めた「市民参加」の取り組み

糀屋:「民間企業」じゃなくて、「市民みんな」でやるまちづくりが大事である、と。

森山:そうそう。市民一人ひとりのつぶやきとか、こういう町になったらいいなっていう思いを、ちゃんと形にしていく。そういうまちづくりをやりたいなと思うようになったんです。それで、帰ってきて『計画情報研究所』というまちづくりのコンサルタントに入社しました。行政からうちの会社がコンサルとして受注して、協議会を作って市民参加で計画する、みたいな流れでしたね。地元のまちづくりに携わるようになったのは、そのコンサル業務が最初でした。

糀屋:市民参加のまちづくりが始まったんですね。当時の仕事で形になったものはどんなものですか?

森山:糀屋さんもご存じの「御祓川沿いの道路計画」は、その時期に私が手がけたものです。舗装材はどうするか? 街路樹はどうするか? 道路と並行して川も整備したんですけど、護岸整備や橋の架け替えもあって……張り切って、学生時代に学んだワークショップを取り入れて市民の皆さんと一緒に考えて……。

糀屋:道路も川も全部やられた?

森山:はい。ただ、その部分を整備するのは行政の「道路側」なのか「川側」なのか?みたいなことになって……。そもそも道路行政と河川行政ってあまり風通しが良くなかったんですよ(笑)。それぞれが検討組織を作ろうとしていたくらい。でも、市民にとってはどっち側がやろうが同じですからね。それで私が「これ一緒に検討した方がいいですよ!」って協議会を一つにまとめてやったんですけど……今、説明していて思いましたが、私、結構すごい事やってますね(笑)。

糀屋:それを森山さん主導でやってたんですか?

森山:主導というよりはコンサルとして提案したというだけなんですけどね。行政からの発注に対して「こうやった方がいいでしょう」という逆提案をしたんです。「市民にとって協議会は一つの方がいいから」って。それで橋のデザインから、河川際にベンチを作ったりとかを、市民の皆さんも交えて議論しながら決めていく。私はそれをファシリテートしてた立場です。行政が整備するって決めた、いわゆる「ハード面のまちづくり」に対して、市民がどう参画するかを考える仕事でしたね。

糀屋:ファシリテート、大事です。

直面した「補助金行政」、「だれかがやらんといかん」

森山:その流れで、今度は「ソフト的なまちづくり」にも関わるようになったんですよ。その一つが「中心市街地の活性化」に関する仕事です。当時は、TMO(タウンマネージメント機関)とか市街地活性化法とかいうのがあったんですけど、それの、TMO構想を立案するっていう、仕事が回ってきたんですが……。これ……いろんなところで喋ってるからいいと思うんですけど(笑)、七尾市と商工会議所が中心になって『七尾街づくりセンター』っていう第3セクターを作るわけです。その会社が「何をやればいいか」という事業構想を立てる仕事です。

糀屋:先に組織ありきで、そこで何をやればいいかを考える?

森山:そうそう。中心市街地の活性化の方針を立てる。もちろん『七尾街づくりセンター』というのはあくまで株式会社だから、ちゃんと儲けも出さなくちゃいけないんですよ。それで会社を回していくフィージビリティスタディ(新規事業が現実的に可能であるかどうかの調査)の案まで考えて……。あとは商店街の人たちに聞き取りをしたりして、若いなりに頑張って取り組んだんですよ。スタンプ事業(商店街等が発行するスタンプで景品や金券と交換して再来店を促する仕組み)がいいのか? 駐車場事業がいいのか?

いずれにせよ「町のみんなのためになるようなことをして稼がなきゃいかん」ということで、いろいろ案を出して、検討委員会に持って行ったんですけど……今でも忘れませんよ。検討委員会の委員長から「この会社は補助金の受け皿会社だから、そこまで考えなくていいんだよ」って言われたんです(笑)。

糀屋:ああ……それはキツいですね。

森山頑張って計画したけど、実行されない。そういう憂き目に遭うということがわかっちゃったんですよね。「実行する人がおらんやん!」って事ですよ。それで「誰かがやらなきゃいかんよね!」ということで作られたのが、今の『株式会社御祓川』なんです。

糀屋:なるほど。自分でやるしかない。

森山:というか、自分でも出来ないんですよ、まだ私も当時は25歳とかだったので……。それで、父親に相談したんです。本当は守秘義務があるので言っちゃ駄目だったんですけど(笑)、七尾のまちづくりのことですからね。「TMO構想は仕事として納めるし、『七尾街づくりセンター』も作られているから仕事としてやる。でも実行主体は他に何か要ると思う」「補助金目当てじゃない、民間のまちづくり会社が必要なんじゃないか?」って話をしたら「じゃあ企画書を書け」って言われて……だから『株式会社御祓川』の企画書は強いて言えば親から発注されたんですよ。

糀屋:では、当時『株式会社御祓川』の社長はお父様?

森山:そうです。その企画書が、そのまま出資目論見書になって、それを元に父が出資を集めたんです。よく私が作った会社やと思われがちなんですけど、会社を作ったのは親世代。若い者に投資した、という感じだったと思います。若者だった私に「やってみい!」という感じで5000万円が集まりました。筆頭が1100万と900万。あとは500万ずつで8人。

糀屋:地元の有志の方々が……。

森山経営者たちの集まりなので「金」と「人」と「場所」を準備してやる、みたいな感じでしたね。「人」に関してもそれぞれの会社から出してくれた。会社が出来上がっていく過程で、私は『計画情報研究所』を辞めて、立ち上げに関わりたいと思っていたんですけれど、社長からも先手を打たれまして……「辞めるな。出向扱いにする」って。それでお金と私を出すっていう形にしてくれたんです。

糀屋:では、元いた会社も出資者に?

森山:そうなんです。今も監査役をやってもらっていまして……一生頭が上がりません。

糀屋:森山さんがいかに信用があったってことですよね。

森山:信用というより、勢いとかかなあ(笑)。

「地域のため」とは何か

糀屋:森山さんって、すごいパワフルだと思うんですけれど、昔からやっぱりそんな感じだったんでしょうね。何でもなぎ倒していくような力強さとパワフルさをすごい感じるんですよね。

森山:いや……弱いっすよ(笑)。

糀屋:でも、そうじゃないとまちづくり……というか、いろんな利害関係者がある中で、これだけの活動はできないと思うんですよね。

森山:でも、そういうの良くないんですよ。よく「奈美ちゃんだから出来た」とか言われることが多くて、視察とかに来られた人も「森山さんがいるから出来たんだね」って。みんなそう言って帰るんですよ。それって、再現性がないじゃないですか。視察に来た意味ないよ! って思いますよ。

糀屋:でも、地域で活動している人たちって、どこかで損得勘定を超えて、パブリックのため、地域のために何かしなければいけないっていう感覚を持ってる人でしょう? それってかなりのレアキャラだと思ってるんですけど。

森山:でもね、私はローカルの経営者ってほぼほぼそうだと思ってますよ。だって損得勘定でやってたら、地域を出て行きゃいいじゃないですか。だけど、その地元のために投資し続けてますよ。そういう人たちを私は中学の頃から見てましたから。それは、今だから「すごいな」って思うけど、当時はそんなことわかっていませんでした。ただ「会社を経営しているこういう人たちってカッコいい」と思っていた程度でしたから。

糀屋:普通の子どもは、そういう経験がないですからね。お父様も地域のためにっていうことで動いてらっしゃって、そういう中で育ってこられたってところは、かなり森山さんに大きな影響与えているんでしょうね。

森山:そういう人たちがいて、私がたまたまそのうちの1人の娘だってってことです。

(構成・斎藤貴義)

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