オーベルジュ・フレンチレストラン「LES QUATRE SAISONS MUNAKATA(キャトルセゾン宗像)」のシェフ・上村秀字さんの波乱万丈と夢「宗像を世界に発信したい」
福岡県宗像市でオーベルジュ・フレンチレストラン「LES QUATRE SAISONS MUNAKATA(キャトルセゾン宗像)」のシェフを務める上村秀字さん(52歳)。彼の作る料理は独創性にあふれ、国内のみならず海外からの来訪客をも虜にしています。ですが、実はフレンチのお店で修行をしたことなどは一度もないのだそう。波乱万丈、誰にも真似できないキャリアを歩んできた上村さんにこれまでのお話と、今後目指していきたいことについて伺いました。
トラック運転手から未経験で料理の道へ
北九州に生まれ育った上村さん。「けっこうグレたりしてましたよ」と笑う彼は、高校卒業後はトラック運転手として就職した。大きなトラックを運転し、全国をまわる日々。30歳を前に、当時つきあっていた彼女に「30歳になったら手に職をつけないといけないと思う」と言われた。当時はテレビ番組『料理の鉄人』がヒットしていた。「彼女の『料理だったらあなたもできるんじゃない?』という言葉を鵜呑みにしたんですよね」と上村さんは言う。
とはいえそれまで料理はやったことがなく、興味もなかった。だが自分にもできそうだなという気持ちはあったため、さまざまな飲食店の面接を受けてみた。10件以上の面接を受けたが、ことごとく不合格。30歳という年齢、未経験であること、しかも面接にバイクに乗っていき、バイカースタイルで臨んだのも良くなかった。「『誰でもいいから来てくれ』と書いてあるところまで落とされました(笑)」。そんな中、ようやく北九州の温泉旅館で採用が決まった。
しかし料理人募集という応募で入ったにも関わらず、与えられる仕事は壁の塗り直しや、駐車場を作ってくれと言われて土木作業。「いつになったら料理できるんだ?と思って、2カ月で辞めました」と苦笑する。
その後人のつてをたどり、大分の九重の山奥で山菜料理を出す施設の厨房に入った。だがそこは料理長が威張っており、それぞれが仕事をしているときにも「俺が鰤を下ろすのを見せてやるから来い」などと言われたり、一番下だった上村さんは雑用を押し付けられることも多かった。
「縦割りがとにかく嫌だ!と思いましたね。それに、魚をおろすのなんて誰だってできるじゃん、って思って」。料理はまったく未経験だった上村さんだが、「次の日にわからないことを残さない」を信条にしていた。魚がおろせなかったら、何百匹と魚を買ってひたすら練習し、次の日にはできるようにしていたのだという。
飲食を始めてわずか2年で7店舗に
早々に九重の職場も辞めたところ、高校の頃の先輩が北九州で居酒屋をやっているから手伝いに来てくれと言われ、働くことになった。上村さんが店に入りメニューを工夫するようになると、売上はそれまでの3倍に。気を良くしたオーナーがもう1店舗を出店し、金遣いが荒くなってしまった。
「だんだん家賃も払えなくなって。僕は保証人になってたのに、逃げられちゃったんです。300万ぐらい借金がありましたね」。仕方ないので店を居抜きで使い、看板だけ掛け替えてもつ鍋屋を始めたら、さらに売上が倍になったという。
もつ鍋屋の看板ではあったが、もつ鍋が炊けるまでにサラダやキッシュを出したら、これが大当たりとなった。宴会コースは3カ月先まで予約でいっぱい。上村さんの弟がホルモンを卸していたため、格安で仕入れができたこともあり、売上がどんどん上がった。「それが31歳か32歳の頃です。1カ月700万ぐらい売り上げてましたね。32歳の頃には、北九州でもつ鍋屋のほかにワインバーを出したりもして、合計7店舗までになりました」
センターキッチンを作ってそこから各店舗に料理を運んだり、販売したりなどさまざまなことをしていたが、スタッフ教育がどうも上村さんの性にあわなかった。5年ほど経った頃、1店舗だけ残して他の店舗を閉店すると決断。他の店舗は運営していたスタッフなどに無償で譲渡してしまったものもあり、借金だけが残った。
店舗を閉めるということは、従業員を解雇しなければいけないということでもある。「それまでやりたい放題やってきたんですが、さすがに反省しました。1店舗だけ残ったモツ鍋屋で借金を返しながら、ビジネスの勉強をしたり、『なぜ自分は人にひどいことができるのか?』と心理学の勉強もしたりしました」
ここまで話を聞いていると、上村さんの経歴はほぼモツ鍋屋である。
「家族のためにお詫び」のはずが…
実は既婚者である上村さん。「50歳になる頃には家に帰って、家族へのお詫びをしないといけない」とは考えていた。48歳のときにモツ鍋屋を閉め、カウンターだけの小さな店を開こうと考えていた。そこに弟から「恩師が定年退職して、焼肉屋を出すのが夢だというので、3カ月だけ手伝ってよ」と頼まれ行くことになった。
まったく商売のことを知らないオーナーは元校長先生。実質、上村さんがすべてメニューの考案から店舗の運営まで引き受けることになった。3カ月の予定が、新型コロナの影響で辞めるに辞められなくなり続けることに。
店に住み込み、24時間対応のテイクアウトをしたり、キッシュやパスタなどの入ったランチボックスを販売するキッチンカーを出したりもした。「焼肉屋ですけど、肉のないランチも出しました。デザートも考えたりして。ランチもかなり集客できたりして、コロナ禍でもやれるんだなというのは感じました」
焼肉屋に関わって2年ぐらいした頃、「何かやりたいからアイディアを出してくれ」とまた頼まれた。10案ぐらい出した中から選ばれたのはフレンチカフェ。その運営も上村さんがやることになり、昼は宗像市でフレンチカフェ、夜は小倉で焼肉屋に関わり、ほぼ寝られない状況が続いた。
そのフレンチカフェが、地元の人からも人気を集めた『夢季家(ゆきや)』だ。カジュアルながらも本格的な料理が受けて、連日盛況に。しかし、多くの来客に対応するためにスタッフの数も増え、コストも上昇。原価率は30%を超え、儲けがほとんどない状況が続いた。上村さんは焼肉屋を弟子に任せて、夢季家に専念することを決断する。
「お客さんを半分に、客単価は3倍に」
「焼肉って、肉を切ったら終わりのところがあるのでシンプルすぎるなと思って、フレンチをもっとやりたいなと」。専念すると決めてまず宣言したのは、「お客さんを半分にする」ことだった。
「社員はギョッとしてましたよ(笑)。でも僕は本気でした。『客数を半分に減らして客単価を3倍にするんだ』と思い、行き届いたサービスに力を入れることに決めました」。そしてスタッフも厳選した人だけ残し、半分に減らした。
残ったスタッフに対しては「所得倍増計画」をぶち上げた。それまで扶養の範囲内で働いている人も多かったが、「給料が3倍になったら税金を払っても得になるから」と説得し、実際に既存スタッフの給与はそれまでの3倍になった。客単価も平均2,000円から6,000円に上がった。
単価を上げることにも成功し、経営が軌道に乗った夢季家だったが、2023年6月に営業を終える。「せっかくなのでさらにチャレンジをしたいなと考えたんです」
大きすぎる古民家を生かすための3店舗運営
そして物件を探している時に出会ったのが、築150年の古民家だ。建物のオーナーの林直人氏はかつて青年海外協力隊としてタンザニアを訪れ、日本のゴーギャンとも言われる画家「水野富美夫」の絵画に出会い蒐集。作品を飾る場所を探していた際に、この古民家に出会いリノベーションをしていたという。
しかし上村さんにとっては、古民家は想像以上に大きかった。「小さいところを探していたので、この建物はデカすぎると思ったんですよ。でも、店のオーナーはノリノリで借りちゃって……」。フレンチだけにしても満席にするのは難しいだろうと考え、多店舗展開をすることにした。1階にはカフェ「琥珀と車輪」と地域の物産を販売するスペース、地鶏焼きの「sumiya 菜恵の麓」、そして2階がフレンチレストラン「キャトルセゾン宗像」と1組限定の宿泊者のための部屋となっている。
「カフェも地鶏焼きもフレンチも、同じキッチンでまわせばなんとかなるだろうって思ったんですよ。客層も広がって話題になっていいのではとも思って」。コロナ禍でデザートを作っていたので、そのノウハウもあり踏み切れた。
1月から実際に営業をスタートしてみて、昼は満席になることも多々あるが、特にお客さんを待たせることなく回せていると上村さん。パティシエとして入った20代の女性も、地鶏焼きの料理を用意しながらデザートを作ったりと、全員がマルチタスクをこなしていけるようになっているという。
「素材」こそがすべて
フレンチの経験がない上村さんが、どうしてここまでお店を成功させることができたのだろうか? 素朴な疑問をぶつけてみた。「調理師学校やホテル上がりの人は、想像力が足りないんですよ。料理は科学ですから、疑うことから始めないといけません」と上村さんは言う。
素材がまずあり、それを味付けしてフレンチの料理を作っていくもの、「味付け」が料理の本質だとほとんどの人が考えているが、上村さんはそもそも肉や魚を「素材」と捉えていないのだという。「大前提として、野菜や肉、魚そのものが料理に個性を与えるはずなんです」
例えば、ほうじ茶をデザートに使いたいと考えた時は、お茶屋さんに行ってほうじ茶に最適なお茶を買い、お茶を焙じるところから始める。野菜も地域の物産館に行き、おばちゃんに「これはどうやって調理したらいいのか」と毎日毎日聞くようにした。そうこうしているうちに実際に野菜を作っている農家にも手伝いに行くようにもなった。
「まず素材がないといいものを作れないんです。次に味付けですが、僕は自分の味付けに自信がないので、ほとんど塩しか使ってません(笑)。胡椒もほぼ使いませんね。あとは火入れ。この3つさえしっかりしていれば、料理は間違いなく美味しくなると思います」
シンプルに考えられる理由は、自分がフレンチの知識を持たないからだとも言う。「頭がいい人ほどバイアスがかかるし、知識を持てば持つほど間違えやすくなると思います。まず自分で見て、感じて、考えるようにしています。だからこそいい素材が必要なんです」
農家と一緒に飲食を進めていきたい
その意味で、宗像の素材は非常にポテンシャルが高いのだと上村さんは言う。実はトラック運転手だったころから、宗像の畑を見て「良さそうな野菜だな」と思っていたのだという。気になって土を味見してみたこともあるそうだが、他の場所とは全然味が違っていた。美味しい野菜ができるところは、土も美味しい。ただ宗像の農家さんたちが、いいものを作っているとまだ自分たちで自覚できていないことがまだ多いという。
「僕は野菜の美味しくない北九州から来たので(笑)、よりわかるんですよ。本当に宗像の野菜は美味しいです」
大量生産に疲れ、JAから離脱して「本当にいいものを作りたい」と考えている農家も増えてきているが、「スーパーでキャベツは1個200円だからそれ以下でしか買わない」「トマトは100円」などと買い叩かれているのが現状だ。
「それはあんまりじゃないかなと。いいものを作っている人は評価されるべきだと思うんです」。ひとくちにキャベツと言っても、全く味が違う。それを同じ土俵で買い叩くのは間違っていると上村さん。より良い方法を考えたら、農家と一緒になって飲食業を進めるのが一番論理的だろうという考えになり、今に至っている。
お金にはならない資産を積み上げていきたい
宗像の農家さんたちとつきあっていく上で、上村さんが必ず言っているのは「もし形が悪くて捨てる野菜があったとしても、使える分は正規の値段で卸してくれ」ということだ。完熟して、しかし少しだけ傷がついてしまったトマトは市場に出せないが、それを買い叩くようなことはしない。「むしろスープにしたら全然美味しいのに、見た目が少し悪いだけで誰も手をつけないんです。それっておかしいですよね」
「形が悪い」「色が悪い」と野菜を買い叩いて安く買えたとしても、結局農家が儲からなければ自分にいい野菜が回ってこない。「もっと農家さんにも研究開発して、いい野菜を作ってほしいんです。野菜という“素材”がよくなったら、料理もよくなる。研究するには時間もお金も必要だから、そこをまわしていきたいなと思っているんです」。まずギブすることで、ビジネスの可能性を見出す。AmazonやGoogleなども実践している基本的な考え方だが、それをできていない人は非常に多い。
その発想から生まれてきたのが、3月27日に開催し「子どもフレンチ食堂」だ。中学生以下の子どもとその保護者を対象に、先着100名で受け付けたところすぐに申し込みはいっぱいになった。受付、配膳、料理、撮影などでボランティアを募集し、こちらも20名を超える応募があったという。さらに新規の農家7社から「うちの野菜を使ってくれませんか」と声がかかった。
「今回のことはお金にはならないですが、新しいつながりができたり、ここを知ってもらえたりといろんなことが起こります。資本はお金だけじゃない。信頼や信用を積み上げていきたいと思っています」。これを毎月続けていったら、きっとすごくいい野菜が入ってくるようになるんだろうな、と上村さんは考えている。
「僕のことを“善人”みたいに言う人がいますけど、人を助けているように見えて、全部自分のためなんですよ。感謝されたくないです」とちょっとぶっきらぼうな口調にもなる上村さん。
かつてトラック運転手だったころは、自分がこんな仕事をして、人とつながっていくとは考えもしなかった。食べ物を通してしか社会と繋がれないから、料理にこだわっているんです、と上村さんは話す。「いま、料理をすることによって、自分の人生からしたら考えられないような人と巡り会えています」。糀屋もその1人なのだという。「糀屋さんと初めて会った時に、知性を感じたんです。この人とだったら組んでやりたいな、と直感で思いました」。実際にオーベルジュを始めてみて、その直感は間違っていなかったと改めて口にする。
ミシュランを獲得し、その先に行きたい
上村さんは、「オーベルジュ キャトルセゾン宗像」をファンタジーのような空間にしていきたいという。「料理もだし、カトラリーやお皿、すべてにこだわって、スタッフも厳選して、日常では絶対に味わえないような空間を作っていきたいですね」。そのためには自分たちも常に変化していかなければいけない。「自分が変われなくなったら、終わりだと思います」
今後、やってみたいことや実現させたい夢はありますか、と聞いてみると、「東京に行って、自分が通用するか検証したいですね」と話す上村さん。常に仮説を立てて検証していくフレンチの世界で、自分の考え、やり方が通用するのかどうか。一流が集まる東京で競った結果を見てみたいと考えている。「宗像の野菜や魚は世界に通用するものだと思っているし、それを証明したい。僕ならできるんじゃないかなと思っているんです」
理想は四季に分けて、2ヶ月東京で営業し、1ヶ月宗像で営業すること。「それで成功できたら、宗像が日本を代表する土地になれるということだと思います。宗像が日本で一番なんだ、と証明したいです」。水も土も美味しい、そんなところはなかなかない。自分がそれを証明するために、もっと農家の人たち、漁師、畜産家とつながり、バックアップしてもらえる体制を作っていきたいと力強く語る。
「ミシュランの星を獲得して、その先に行きたいなって思いますね」と真っ直ぐに前を向いて語る上村さん。宗像の名前が世界に知られるようになる……彼の話を聞いていると、その未来もそう遠くないのではと思わざるを得ない。