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何度も運命に翻弄されて、やっと確立したいま 出張料理人・現代美食家ソウダルア×糀屋総一朗対談1

ローカルツーリズム代表取締役の糀屋総一朗と、地域などで活躍する方の対談。今回は「出張料理人」「現代美食家」を名乗り、料理の可能性を追求し続けているソウダルアさんです。対談の初回は、ルアさんの激動の経歴についてお伺いしました。

――ルアさんは、糀屋さんの結婚式の料理のプロデュースを担当されたとうかがいました。

ソウダルア(以下、ルア):ですね。もともと僕は東京で「Cift(シフト)」という拡張家族の理念を提唱しているコミュニティに入っているんですが、Ciftの立ち上げメンバーが福岡で「Qross(クロス)」というコミュニティを立ち上げることになり、Qrossにも時々遊びに行かせてもらっていました。

そのQross内のメンバーの女性と結婚することになったのが糀屋さん。結婚式直前にzoomで料理の打ち合わせをしたのが、糀屋さんとお話しした最初かもしれないですね。

糀屋総一朗(以下、糀屋):ですね。直接会ったのは結婚式当日とか。僕の結婚式は福岡県宗像市で運営している「MINAWA」でこじんまりとやったんですが、テラスで海と空を見ながらルアくんが料理をしてくれて。地元の食材しか使わずに作ってもらって、素晴らしい時間でした。

5歳から料理が趣味 14歳で積み上げたものがなくなって

――ルアさんは、いつごろから料理を始められたんでしょうか。

ルア:うちは僕が子供の頃、父親はコピーライターで母親はスタイリストとして働いてて、忙しくして全然帰ってこなかったんです。そうすると、家の中にあるもので遊ぶようになるじゃないですか。親からはテレビやゲームはダメってかなり厳しく怒られてたんですけど、料理に関しては、「ある物なんでも使っていいよ」って感じで、何も言われなかったんです。

母は僕が中学生の頃にフードコーディネーターに転職するんですけど、それこそ僕が物心ついた5歳ぐらいからとにかく家に調味料がたくさんあって。塩だけでも5〜6種類、砂糖も黒糖やてんさい糖があったり、スパイスに関しては100種類以上あったかもしれない。だから単に目玉焼きを焼いて何かかける、というだけでも無限にバリエーションがあって楽しかったんですよ。家に『美味しんぼ』、『クッキング・パパ』、『ザ・シェフ』といった料理漫画もいっぱいあって、それを読んでレシピを再現したりとかもしてました。

幼い頃から料理に親しんでいたルアさん

その中でも自分のベースになったのは『美味しんぼ』ですかね。海原雄山にすごい影響されて(笑)。単に料理が出来上がりました、美味しい、だけじゃなくて、なぜこの料理を今僕たちが食べているかとか、カツ丼だったらカツ丼がなぜできたとか教えてくれる。それが出張料理人をやっていく上でも、なぜこの土地にはこの調理法があるのかと考えたり、歴史をたどったりして深めていくことになりましたね。

糀屋:『美味しんぼ』の影響はでかいんですね。

ルア:かなりありますね。

糀屋:そんな中で、ルアくんのターニングポイントとなることっていくつかあったのかなと思うんですけど。

ルア:もう、運命に翻弄されてるとしか思えないですよ(笑)。僕自分で言うのもなんですけど、中学生の時は運動もできて、全国模試でも100番以内に入って、風紀委員長もやってたし、やってることだけ捉えれば少女漫画に出てくる完璧な男子みたいな感じだったんですよ。この調子でどっかのタイミングで海外留学して、東大とか入るんだろうなーって思ってたんですよ。

糀屋:完璧な男子だったんだ(笑)。

ルア:そうなんですよ。でも中2の時に阪神淡路大震災が起こったんです。当時西宮に住んでたので、震度7が直撃した地域で。学校も全部休校になるし、いくはずだった高校も壊れちゃって、全部今まで積み上げてきたものが無くなったって感じでした。初めて死んでいる人を間近で見ましたし、瓦礫まみれの街で、生きるのに必死でした。

いままで積み上げてきたものが全部なくなったと語る

その時に温かい、美味しいものを食べることの豊かさ、食の大事さを知ることができましたね。電気の止まった家で家族で鍋を囲んで食べるだけでも、すごく美味しくて。ただそれは振り返ってから思うことで、当時は全部はちゃめちゃになってて、3カ月ぐらい余裕がなかったですね。仮設住宅もなかなかできなくて、学校に住んでましたし。

糀屋:特に中2で、となるとキツイですよね。

ルア:そんな中で親は2人とも仕事が大阪だったので、思い切って大阪に引っ越そう、ってことになったんです。西宮と大阪ってちょっとしか離れてないと思うじゃないですか。でも引っ越してみたら全然別世界で、みんな震災のことは「知ってるけど、被害に遭ったところは復興頑張ってるね」みたいな感じで、いきなり受験勉強真っ只中に放り込まれたみたいな感じでした。

自分としたら3カ月ぐらい1ミリも勉強してないのに、いきなりその範囲がテストに出てくる。今まで90点以上しか取ったことなかったのに、78点とかだったんです。それからバスケも、中3でいきなり自分がそのチームに入って、今まで頑張ってきてた子のボジション奪って出るのもどうなのか、というのもあって、何かわけわからないけどとにかく最悪や、って状態になってたんです。14年間かけて必死でやってきたものがなくなっちゃって、どうしたかというと、夜遊びを始めました。

15歳から働いて、世界の料理をひたすら吸収

糀屋:中3で?

ルア:ですね、15歳で。親も親でその時は必死だったと思うんですけど、自分としてはその時「親に迷惑をかけられた」って感覚が大きくて、全然いいやって。15歳から夜のミナミで、朝まで飲んだりしてました。

糀屋:当時、95年とかですよね。東京だとカラーギャングとかいた時期かな。かなり治安もやばかったんじゃないですか?

ルア:いやもう、今の比じゃないぐらい危険でしたよ。だから1人で歩くのやめようと思って、まわりとつるんでたので、そういう意味では僕も周りからみたらギャングの一部に見えてたでしょうね。僕は黒でした。

糀屋:めちゃめちゃ怖い時代ですね、やっぱ。

ルア:ほんとに。それで結局、学校関係の何かを頑張る気にならなくて、中3の途中からバイトを始めたんです。当時はたぶん今よりも緩くて、中学生でも15歳だったら22時までOKとか。家で小さい頃から料理してたのもあって、自分がけっこう「使えるやつ」だったのも大きかったかもです。まあ、1日がっつり働いても7、8000円ぐらいしかもらえなかったりでしたけど、料理とか酒のことはものすごくわかるようになりました。当たり前ですけど、食べに行くと1回で5〜6品、シェアしても頑張って10品ぐらいしか食べれませんけど、働いたらその店の全部のメニューがわかるんです。

だからちょっと気になった店には「働かせてください」ってシェフに直談判してました。普通に履歴書持っていくと16歳だと門前払いになるけど、シェフに「この料理に感動したから働きたいんです」って直談判するとだいたい入れてくれるんです。そんなふうにして、5〜6店舗かけもちで働いてました。

糀屋:でもお店って、自分の作りたいもの作れないじゃないですか。そこはどうでしたか?

ルア:その頃は、「世界中にこんなたくさん料理があるんや」って、作れるものが増えていくことがとにかくうれしかったですね。20歳ぐらいまではそんな感じ。それまで趣味だった料理が実を結んでお金になるっていうことを楽しんでました。あ、一応高校にも行ってて、頭が悪いから落ちこぼれたとか思われるのが嫌だったので、3年まで通って12月に中退しました(笑)。

17、8歳ぐらいにカフェブームが来るんですけど、大阪のカフェを代表するようになる「muse osaka」という店が堀江にできたんです。そのメニューを考えたのが母親で。何が面白かったって、オーナーも「カフェってなんだ」ってわかってないから、料理は何やってもよかったんですよ。僕の母親が大阪で顔のきく人だったことと、僕が子供の頃キッズモデルやってたんですけど、それを知ってる人が多かったこともあって、来る大人たちがみんな僕のことを面白がって可愛がってくれたんです。僕目当てに来てくれる方もいて、僕がかなり売上を叩き出してましたよ(笑)。そうやってかなり自由にやってたんですけど、やっぱり東京のカフェの噂とかが聞こえてくるんです。

糀屋:バワリーキッチンとか、ロータスとか、すごい勢いありましたよね。

21歳で上京、料理の世界で「無双」

ルア:どんなに大阪でかっこいいカフェ作って、そこそこ楽しくやってたとしても、やっぱ東京のカフェ事情を知らないのはダメな気がしてきて、21歳で上京しました。でも来てみたら、コンセプトの作り方とかはすごくうまいんですけど、実際料理は全然美味しくなくて「あ、ちょろいな」と思って。でも料理……ってなると1か所に縛られるなと思ったので、ドリンクメニューのプロデュースを始めました。

糀屋:どんなドリンクを作ってたんですか?

ルア:けっこう今っぽい、スムージーとか作ってましたよ。ハーブとかスパイスの知識もあったので、料理の経験を生かしてドリンクを作る感じで、けっこう無双してました。5年間で50件ぐらいプロデュースしたと思います。そうこうしてるうちに2005年ぐらいからケータリングブームがきて、そのプロデュースもしたりして、かなり順調にやってました。結婚もして、子供もできて、それで2007年に満を持して渋谷に自分の店をオープンしました。そこらへんから、雲行きがあやしくなってくるんです。

飲食の方でいろいろやりきってきたので、「やるんだったら徹底的にやりたい」と思ってしまって。バーで働いてて、サービスマンとして一番すごいと思っていた女性、カフェで働いていたイケメンとかに声をかけて、ビジュアルもいいし仕事もできるエース集団を集めたんです。もう、成功する気しかしなかったんですけど、とんでもなかった。スラムダンクみたいに個性が集まって爆発してもっとすごいものができるかと思ったら、みんな我が強すぎて仲悪くなっちゃって。2人集まったら他のやつの悪口を言う、僕のいないところで僕の悪口を言う、みたいになっちゃったんですよ。それで1人抜け、2人抜け、ってなって、僕1人になって。

それで1人でやるってなったらもうメニューも全部なくして、「きたやつ全部かかってこい」「俺が今一番うまいと思うもん食わしたるわ」みたいにやり出したら、店として面白く転がっていったんですよね。

自分の店を持つも、ふたたび震災でゼロリセット

糀屋:メニューなしのフリースタイルにしたんだ。

ルア:今でこそけっこうそういうスタイルの店ありますけど、2008年当時はなかなかなくて。噂が噂を呼んで、有名人の方も来てくださる店になりました。料理して、ひと段落したらお客さんと一緒に飲んで、ってやって、お客さんの平均滞在時間が6時間とか、最長15時間とかいう店になったんです。

糀屋:15時間?

ソウダ:夜からいて、夜通し飲んで朝ごはん食べて帰るみたいな。そういういかれた店を楽しくやってたんですけど、それだと僕は家に帰れない。そうしたら奥さんに「何のために結婚したのかわからない」と言われてしまって。僕も若かったから、「しっかり自分のスキルで稼いでるのに何の問題があるんだ」みたいな感じで、ちゃんと話をしなかったんですよね。それである時帰ったら妻の名義で借りた部屋が解約されてて、出ていかれてました。そこから別居が始まって、離婚ですね。

でも店は相変わらず順調でした。そうこうしているうちに、2011年の東日本大震災がくるんです。身一つで店やって、その店すらもたちいかなくなるっていう。同じ震災ですし、「また来た」みたいな。

糀屋:同じシチュエーションだったんですね。

ルア:そうは言っても売上的には2〜3割減ぐらいで済んだんですけど、放射能によって食品の安全性が担保できてない状態でお金をいただくという違和感が自分の中で大きくなってきて。それから震災によって「箱」を持ってることのリスクをすごい感じましたね。最終的に決定的になった出来事は、震災1か月半後ぐらいに、店の大家さんから珍しく電話がかかってきたことですね。「大丈夫ですか」って。

糀屋:心配してくれたんだ。

ルア:それが全く逆で。「今月の家賃ちゃんと払えますか」って。その時、「日本中がいろんなことで困ってるし、福島であんな目に遭ってる人たちもいるのに、お前の心配は今月家賃振り込まれるかどうかかよ」と思って。まずもってこいつになんか金払うもんかと思って、店を畳んで旅に出ることにしたんです。もうダメ元で本当にどうなるかわからんけど、「出張料理人になるわ」って宣言したんです。

糀屋:それは明確にやりたいというよりは、ノリというか。

ルア:ノリに近かったですね。雇われるのもなんか違うと思ってたし。ただ、明確に決めてたのは、「世界がいくらぐちゃぐちゃになっても大丈夫な存在になりたい」と思ってました。

糀屋:その感覚ってすごいわかるかも。

ルア:世界が滅亡して生き残ったとしても大丈夫、ってなりたくなりましたね。さすがに2回ぐちゃぐちゃになったので。あとは、「生き方を提案したい」みたいな気持ちが大きくて。店持たなくても料理人として生きていけるよって提案したかったんですよね。それで、行った先でアドリブで料理を作って、何かしらのお金を得られるんだったら、もう「箱」は必要ないし、料理人としてある種無敵の形だなと思ったんです。そこから流れるままに自然やその土地土地の人に教えてもらいながらこの10年はあるなと思ってます。

つづき「料理は自然と人をつなぐ媒介」は明日公開です。

(構成・ポートレート撮影 藤井みさ)

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