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あの頃

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自分が通った小学校に娘が通い、自分の育った街に住んでみたら、『思い出ぽろぽろ』のようにあの頃の私と同居するようになった。ドラマチックでっもないけれどあの頃の自分が抱えていたものが… もっと読む
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成田空港

1991年5月某日、私は成田空港にひとり降り立った。あと一月一寸で6歳になる手前、5歳の時だ。胸に『同伴者不在児童』と書かれたプラカードをぶら下げ、上海の空港で祖母に私をたくされた赤の他人と、空港スタッフのお姉さんに手を引かれ、到着ゲートで待つ両親の元へと誘われた。数年ぶりに会う両親と、いわゆる感動の再会シーンがあった記憶はない。そもそも私は両親の事をよくおぼえていなかった。父は私が1歳になる前に日本へ留学し、母も私が3歳になると父の元へ渡った。母との別れの朝、知人のバンで彼

年夜飯とおせち①

師走ですね。先週の春を思わせる暖かな雨風からうってかわって、12月に入った途端に冷え込み、ぶわっと年末が目前に感じられるようになりました。11月初めから、街を歩けば『おせち承ります』の張り紙を見かけるようになり、12月にもなると『売り切れました』と、そのチラシの上にステッカーが貼り足されていくのを目にして、胃の下あたりがうずうずそわそわ。どうせ作りも、買いもしないのだから、あたふたする必要なんてないのにです。 さて、『おせち』をどうせ作りも買いもしないと書いたのだけれど、そ

小籠包

初めて小籠包を食べた日を、今でも覚えている。私は10代の反抗期まっさかり、20世紀末である。場所は上海の観光地として名高い麗しの豫園、その敷地半分を占める商業施設、豫園商城内に店を構える南翔饅頭店である。豫園は、16世紀中頃に孝行息子が愛する父親へのプレゼントとして造園した美しい庭園で(庭園プロジェクトが壮大すぎてが完成したのが父親の没後であったという、なんとも上海らしいオチ付きである)、近年造られた隣接の商業施設も伝統的な建築様式で建てられている。中国の物産品や工芸品を取り

父 

私の両親は上海人である。上海人は自らのことをプライドを持って「上海人」と言う。上海人は上海語を話す。標準語である北京語と文法は大体同じであるが発音が全く違う。同じローマ語圏のフランス語とイタリア語の違いに似ているかもしれないし、もっと違うかもしれない。例えば、上海語と広東語でのコミュニケーションは不可である。上海人は外国で上海語を耳にすると赤の他人でも話しかけずにはいられない、「ガーセーメン」(情報過多気味の世間話)をして即時に既知の旧友のようになる。逆に上海人でない者を一括

『小さい頃は 神さまがいて 毎日愛を届けてくれた』

今日は久々の晴天であった。雲一つなし。こんな日、自分でもおめでたい人間だなと思うのだが、私は喜色満面を隠せない。通りすがる人に奇異の目で見られても、それにすらニッコリ笑顔を振り撒いたりして、さらに気味悪がられるのも、気にしない。前日までは秋だというのに、連日冷たい雨が降り、横着な私は慌てて衣替えをしようと、埃アレルギーのくしゃみも鼻水も出っ放しで子供の洋服をやっと整理し、鍋いっぱいにきのこと根菜の入ったチキンカレーを作り、乾かない洗濯物に苛立っていた。 今もこんなふうに、天

書くこと

noteをはじめて、ひと月が経ちました、とメダルをいただきました。 ことあるごとにバッジやメダルを進呈してくれるあの機能、最初は子供騙しのようで、馬鹿にされているのかしらと、お知らせがポップアップするたびにうすーく眉間に皺を寄せて消していたのだけど、あらま意外と背中を押してくれるものですね。飽き性な私がめげずにポツポツ書くことをひと月続けられたのは、あの機能も手伝っているようです。 私が最初の文章を書き始めたのは小学校5年生の時だったと思います。塾通いのおかげで国語力が伸

ブレックファースト

一日の始まりにみんなどんなものを食べているのだろう。のぞいてみたい。 子供ができる前、つまりニューヨークに住んでいた頃、朝ごはんは外で買い食いするものだった。早朝からカフェは開店し、道の至る所にベーグルとコーヒーを売る屋台が立ちしのぐ。みな行く先々で気に入りの店があり、授業や仕事が始まる前に買ってサクッと食べていた。私が通ったESLや大学では、生徒や先生もヨーグルトやらリンゴやらを教室に持ち込んで開始ギリギリまで齧っていた。「真面目に授業を聞きなさい」が授業だと思っていた私

こわがり

こどもの私は怖がりでした。 今考えるとちょっと異常なほどではなかっただろうか。 みなさん、どうでしたか? 怖がる対象は、ザ・オバケ&幽霊。今風に言えばスピリチュアルなこどもであったが、そういったものが見えたことはない。どんな風に怖がりだったかというと、とにかくひと気のないところがダメだった。小学1年生の頃は、怖くて学校のトイレに一人で行けず、我慢しきれずにトイレの失敗を何度かしでかした。幼稚園生でもあるまいし、恥ずかしいのと、理由を説明できる語彙力がないのとで、先生に言えず

干梅

先日小学校から帰宅した娘がやたらと空腹を主張し、お菓子を求めて家捜しするので、どうしたのかと聞いたら給食をあまり食べなかったという。配膳の量が少なかったわけではなく、好き嫌いで減らしてもらったそうなのだ。彼女があっけらかんとしているからなのか、パンデミック帰国を果し、転入して入った私の母校にはやさしい先生ばかりいるようだ。私が五歳で来日し、翌年入学した頃の先生達は厳しかった。隣の席の少年にちょっかいを出され、場違いに騒いでしまって廊下に放り出されたことも幾度とある。特に嫌な思

Tさんと私と鍵と

以前にも子どものころ鍵っ子だったと書きました。優しくしてくれる大人がいたと書きました。今回はその思い出を綴りたいと思います。 何年生の時かはうろ覚えなのですが、小学校2・3年生のころだったと思います。帰宅方向が同じで家も近いので、学校ではさして仲が良かったわけではなかったけれど、一緒に帰る同級生に『Tさん』という子がいました。その日私は憂鬱でした。帰りの準備をしているときに、家の鍵を忘れたことに気がついたのです。家には誰もいないので、建物の入り口で母の帰りを待つことになりま

ローカルストレンジャー

ローカルストレンジャー。この言葉を使いはじめたのはニューヨークに住んでいたころのことである。アメリカでは、学生ビザでは働いてはいけないことになっている。けれど大学卒業後1年間、OPTという外国人学生が就職に向けて、インターンとして働きながら在留をして良い期間がある。そんな最後の1年、私はインターンシップといえば聞こえはいいが、無給の雑用係として憧れのコレクションブランドで働いていた。時は2010年、2008年の金融危機の影響がまだまだ生々しかった当時、就労ビザを取得する難易度