見出し画像

1人哲学対話「ずっと真夜中でいいのか」

哲学対話とは

日常のなかで出会う「不思議」について、受け流すだけや、もやもやするだけではなく、一度立ち止まってその意味や価値を吟味することで哲学的な思考を養い、自ら考えより良い社会や現実をつくっていこうとする営みです。

一般的には複数人で異なる考え方と交差させながら制限時間をもうけてやるものです。

哲学者の永井玲衣さんらのポッドキャストで「ずっと真夜中でいいのか」というテーマで哲学対話を行っていた。
わたしも以前「夜」というテーマでエッセイを書かせてもらったことがあったので気になり今回取り上げる。


わたしは数年前までは「ずっと真夜中でいい」派だった。真夜中の方が日中に対して素直で本能的でそのまんまでいられる感じがしていた。

しかし、体力の低下とともに翌日を気にして純粋に楽しめなくなったし、朝まで飲み散らかすような真夜中の楽しみ方に虚無感を覚えたり、シンプルに飽きてしまった。それでも、たまに真夜中に馬鹿みたいな飲み方したいな〜とは思う。

じゃあお酒があるのが条件だろうか?

たしかにお酒のない真夜中はあまり望んでいない。テスト勉強なり仕事なり、夜中まで追い込まれているという状況の真夜中はできるだけ避けたい。

ということは、真夜中というよりもお酒の方が大きな要因になる。

しかし、お酒の価値が日夜問わず「解放感」だとして、真夜中にも同様の解放感がある。
日中に対してこのあとやるべきことがない、過ごし方を自分で自由に選んでいい、という解放感。
あるいは、明日のための体力をここに注ぎ込むことの快楽的罪悪感。
さらに、本来昼行性の人間がかえって真夜中に生き生きしているという状況に脳が異常を察してアドレナリンを放出している影響もありそう。

そういう、自由を感じる心理的状況や本能的な反応が掛け合わされた真夜中の開放感がたまらない。

そうなると、それに対する日中の閉塞感がなれればそれを味わうことができないだろうから、真夜中のよさを味わうには日中が必要なのでずっと真夜中ではよくない。

だとすると、閉塞感がなければ真夜中はいらないのかもしれない。じゃあ、そもそも閉塞感ってなんだ?

字面からみて、閉じている、塞いでいる、感じ。

日中、社会のなかでなにかの目的に対して役割を担う以上、自分のどこかを閉じたり塞いだりして立ち振る舞う必要がある。
それが過剰になると息苦しさが生まれるわけだが、それに納得いかないならできるだけ開いた自分で生きていけるような環境を選んだり自らつくったりするしかない。
あと、思考の矢印があまりにも自分に向きすぎてるとしんどくなってあまりいい答えは出せないと思う。

自分を過剰に閉じさせるのは過剰な理性や思考だろうから、それを取り払ってより自然な状態を目指すと解放感に向かっていくのだろうけど、人間として社会で生きる以上理性や思考を取り払うことは不可能だ。

むしろその理性や思考をどのように自分の解放のために向かわせるか、という回路にして乗り越えるのが健全だろう。

100%開けなくても、1日の10%でも、1週間の1%でも。

そのために、社会で生きる我々にどっぷりと解放感を与えてくれる真夜中は必要な存在かもしれない。

ただ、どうせ真夜中はいつか終わりまた1日が始まるのだから、真夜中に救いを求めて依存していても現実が勝手によくなっていくことはない。

それを受け入れるか跳ね除けるかは自由だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?