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僕がスピッツの歌詞のどこに惹かれたのか考えてみようの会

はじめに

曲における歌詞って割とどうでもいいと僕は思っている。
歌詞なんて雰囲気や語感が良ければそれでいい、何となくいいなーと思えるフレーズがあったらそれでいい、みたいな感じに思っている。

曲を初めて聴く時、歌詞を一から百までは正確に追えないし、でも「なんかいい曲だな」と思うことがある。そこで初めてフルの歌詞を見て、こんな歌詞だったんだ、と新たな気づきがあったりする。「いい歌詞だ」と思う時もあるし、「こんなダサい歌やったんか…」となることもある。

とにかく、フルの歌詞なんて意識して見ようと思わない限り、なかなか目にしないものだ。

普段「歌詞」に特に思い入れがない僕だが、なぜかスピッツの歌詞には特別好きなものが多い。

そこにはちゃんとした理由があるはずで、それを考えて言語化してみたいと思ったので、記事にまとめることにした。

なぜ、僕は特別「スピッツの歌詞」が好きなのだろうか。どこに惹かれているのだろうか。

※この記事は主観盛りだくさんとなっていますのでご理解のうえ目を通していただけると幸いです

あまり力強い断言をしないところ

一般的なポップソングの多くは「永遠に君を愛している」やら何やらと、断言を用いて曲を作る。確かに、ここまでスパッと言い切れたならどれほどかっこいいだろうか。
でも正直、これってキザすぎる。こんなキザな言葉が響くのは、酒や自分に酔ったり、恋に溺れて理性を失っている時くらいのもんで、非日常すぎる。日常はこんな断言できるものではなく、もっと曖昧で、退屈なことばっかりなワケで…。

スピッツの作詞を手掛ける草野マサムネは、こういった歌詞を基本的に書かない。
代表曲でいうなら、チェリーなら「愛してるの響きだけで強くなれる“気がしたよ”」だし、空も飛べるはずなら「きっと今は自由に空も飛べる“はず”」なのだ。
どちらも強いフレーズを使いながら、本当にそうなってはいない。日常にふと訪れる刹那の高揚感に目を向けながら、そんなに大それたことは現実に起きないということも同時に表現している。
スピッツの詩は掴みどころがないながらも、常にどこか現実主義なところがある。

先ほど「永遠に君を愛している」というフレーズをキザな例として用いたが、これに関連して、スピッツの歌詞にとても好きなフレーズがあるので紹介させてもらう。

いつも気にしていたいんだ
永遠なんてないから

「さらさら」

「永遠なんてない」から「いつも気にしていたい」。死か別れか、いつか終わりが来るという現実を見据えながらも、君のことを「気にしていたい」のだ。
この「気にしていたい」というのもまたスピッツらしい可愛らしい表現となっている。
これも「愛」のようなものの一つのカタチだと受け取れるが、「愛してる」「好き」などとは言っていない。こういう表現が多くて、それがとても馴染むのだ。

平易なことばで紡がれる、独特かつ豊かで多彩な表現と「想像の余地」

幼い微熱を下げられないまま 
神様の影を恐れて
隠したナイフが似合わない僕を
おどけた歌でなぐさめた

「空も飛べるはず」

この「幼い微熱」とは何だろうか。普通、微熱に「幼い」という修飾をつけることはない。
「神様」の「影を恐れる」というのもなかなかない。神様にはお願いしたり、お祈りしたりというのが一般的ではなかろうか。

スピッツの歌詞に用いられる単語自体は、小学生でも理解できるようなとても単純なものが使われている。難しい熟語だとか、カッコつけた横文字などを使うことはほぼないと言ってもいい。
なのに、スピッツの曲の歌詞はよく難解だと言われる。「この曲の歌詞はこういう意味を持っている、こういう状況を描写している」と説明するのがとても難しい。

でも、わからないなりにも想像を働かせることはできる。「幼い微熱を下げられないまま」という表現から、若気の至りや若さゆえの過ち的なニュアンス、熱に浮かされている感じ、「微熱」程度のちょっと異常な状態が続いているのだということなど、さまざまな事が想起される。
また、「隠したナイフ」という非日常的なワードの後に「握りしめる」とか「捨てる」とか書きたくなるところを「似合わない」とするこの「真実味」、というか、何というか…。
「隠したナイフ」が実際に隠し持ったナイフを指しているのか、それとも反抗心のようなものの比喩なのか、それはわからないが「似合わない」というこの簡潔な表現だけで、今ひとつ悪者になりきれないような、そんな人物像が朧げながら浮かんでくる。

存在しなかったり、不思議でちょっとおかしい言葉の組み合わせで、想像を掻き立て、様々な解釈を可能にさせるようなシュールな表現が全ての曲のありとあらゆるところに散りばめられている。スピッツの歌詞はそこがとても巧みだなと感じる。


僕がスピッツの歌詞の“歌い出し”界で一番好きだと言っても過言ではない歌詞を以下に紹介させていただく。

バスの揺れ方で人生の意味が解った日曜日

「運命の人」

一聴すると、そんな日ある?って感じだが…それはさておき。
「人生の意味が解った」などと哲学的なことを言っているが大切なのはここではなく、最後についた「日曜日」である。仕事がある「月曜日」とかじゃなく「日曜日」、これだけで、この日が休みであることがわかる。すると、休みの日に恋人やそれに準ずる相手に「会いに行くor会った後一緒にor別れた後で」バスに揺られている最中かなと推察できる。そのバスの揺れ方と自分の心の揺れを重ねたり、バスの揺れで相手の人とお互いに肩がぶつかったりなどの些細なことで、その相手が人生における生きる意味だと解った(気になっている)のだろうか、といった想像にまで広げることができるのだ。
最後を「日曜日」と締めるだけで、ここまで奥行きのある歌詞にまとめているのだという事実、これをさらりとやってのけるそのセンスに脱帽だ。

補足として付け加えたいが、このバンドの凄まじいところは、普通に軽く聞き流す程度なら、どの曲も本当にスーッと耳を通り抜けていくところである。だが、ある日の「気づき」をきっかけに歌詞を読み始めると、この重厚かつ多彩に描かれる歌詞世界を堪能できるのだ。

根暗で卑屈で、だけど実直な恋愛観

「強く断言しないところ」の項で、スピッツの歌詞はどこか現実主義なところがあると書いた。スピッツの楽曲には、生命の終わりである死からは逃れられないのだということ、そして死を見据えて現在の生をややニヒリティックに眺めるような視点がある(特に初期の曲)。それが顕著な例を以下に挙げる。

どうせパチンとひび割れて
みんな夢のように消え去って
ずっと深い闇が広がっていくんだよ

「ビー玉」

明日になれば僕らもこの世界も
消え失せているのかもしれないしね

「海ねこ」

限りある未来を搾り取る日々から
抜け出そうと誘った君の目に映る海

「愛のことば」

また、スピッツの歌詞には、現状に不満を持っていたり、自分が世界からのけ者にされているような孤独、「変わりたい」と思ってるのに変われない、そういった後ろ向きな感情がたびたび表出する。スピッツの歌詞は「世界」を信用していないのだ。

が、ここで単なるニヒリズムに浸るわけではない。スピッツの楽曲の歌詞においてそれらのネガティブな要素に対抗できる手段が「君」との出会い、君とのアレコレを妄想することなのだ。
一途な恋や捻くれた愛が一筋の光となり、退屈で不満だらけの日常を照らすものとなる。

『世界・現状への不満と「君」』

自分を取り巻くこの世界はロクなもんじゃない、でも君の存在だけで自分は生きていけるのだというストーリーを含んだ曲はかなり多い。

君と出会った奇跡がこの胸にあふれてる
きっと今は自由に空も飛べるはず
ゴミできらめく世界が 僕たちを拒んでも
ずっとそばで笑っていてほしい

「空も飛べるはず」

君と出会えなかったら モノクロの世界の中
迷いもがいていたんだろう
「あたり前」にとらわれて

「砂漠の花」

一人虚しくビスケットのしけってる日々を経て
出会った君が初めての心さらけ出せる
素敵な恋人 ハチミツ溶かしていく

「ハチミツ」

離さない 優しく抱きしめるだけで
何もかも忘れていられるよ
ほこりまみれの街で

「スカーレット」

『妄想、空想と「君」』

上で言及したように、スピッツには現実主義なところがある。現実は非情で、退屈だ。でも、そんな退屈な日常にキラリと光るワンシーンを切り抜き、妄想幻想を巧みに織り交ぜて、スピッツは日常を非日常の世界に変えて優しく誘う。
スピッツは現実主義であるとともに、ロマンチストでもあると言えるのだ。

同じセリフ 同じ時 思わず口にするような
ありふれたこの魔法で つくりあげたよ
誰も触れない 二人だけの国
君の手を離さぬように

「ロビンソン」

わずかな微笑みさえも
残らずみんな分け合えるような
可愛い年月を 君と暮らせたら

「君と暮らせたら」

どうか正夢 君と逢えたら
何から話そう 笑ってほしい
小さな幸せ つなぎあわせよう
浅いプールでじゃれるような

「正夢」

いつか 冴えわたる初夏の日
君と二人京都へ 鼻うたをからませて
遠くで はしゃぐ子供の声
朱色の合言葉が 首すじをくすぐる

そんな夢を見てるだけさ 昨日も今日も明日も
時が流れるのは しょうがないな
でも君がくれた力 心にふりかけて
ぬるま湯の外まで 泳ぎつづける

「初夏の日」

『「恋」の表現』

それは恋のはじまり やがて闇の終り
花屋のぞいたりして

「恋のはじまり」

恋は昨日よりも 美しい夕暮れ
恋は届かない 悲しきテレパシー

恋は待ちきれず 咲き急ぐ桜
恋は焼きついて 離れない瞳

「恋は夕暮れ」

見慣れたはずの街並も ド派手に映す愚か者
君のせいで大きくなった未来

「初恋クレイジー」

分かち合うものは何もないけど
恋の喜びにあふれてる

「フェイクファー」

とまあここまで色々書いたが、結局僕が言いたいことを一言で無理やり要約するとスピッツの恋愛観は「非リア感がすごい」、これに尽きる。

スピッツの曲に出てくる主役はだいたい、いわゆる陽キャグループの明るくて元気な人たちとは対照的な、地味で冴えない根暗なヤツである。
それでも、心から通じ合えるような、かけがえのない誰かと出会いたい…そんな淡い憧れを抱き、そしてその「誰か」を見つけた時の喜び。それはもはや単なる恋などで片付けられるものではなく、「生きる意味」とまで言えるものである。

こういった実直さ、童貞くさい感じ。描写に用いる言葉選びの美しさも相まって、スピッツのラブソングは僕のような色々拗らせた弱者男性にとっての共感性がべらぼうに高いと感じるのだ。

おわりに

色々書き散らかしたが、前提としてスピッツのポップサウンド、バンドロックとしての完成度の高さと、爽やかで唯一無二のボーカルありきで、その上で歌詞に焦点を当てるとそちらにも魅力があるんだよ、ということが言いたいわけだ。歌詞だけ見てもしょうがないんだ。曲あってこその歌詞だ。ということで、この際歌詞とかどうでもいいんでみんなでスピッツ聴こう(投げやり)。

この記事では「自分はスピッツの歌詞のどのような要素が好きなのか」を見つめ直すために書いたが、「なぜ好きか」を考え文字に起こすというのはとかく難しいものだ。色々書いた挙句自分でもよくわかんなくなってしまったようにも感じるし…。

とにかく一つ確実に言えることは、高い演奏技術、透き通った声質、唯一無二のワードセンスが奇跡的に噛み合ったスピッツというバンドが僕の好み的にこれ以上なくどストライクだということだけだ。

これ以上は記事にできない。



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