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リレー小説その⑥「あの娘のこと~前編~」

 アラーム音が、苛立ちと体感温度を上げる。
 乱暴に目覚まし時計を叩いて、アラーム音を止める。それだけでは治まらなくて、テレビの電源を勢いよく点けてみる。朝のニュース。ちょうど天気予報だ。
 全国の酷暑の模様がテレビに映る。いつものように、気象予報士は例年に比べて今年の夏がいかに暑いかについて熱弁を始めていた。まもなく、熱中症への注意喚起を行うだろう。
「今日も全国的に30度を超える所が多くなります。こまめな水分補給や、エアコンの適度な使用を…」
 ほらね。ビンゴだ。ここからは特に見る必要はないと判断した僕は、コーヒーを淹れる準備に取り掛かる。薬缶を火にかける。コーヒーは夏でもホットを淹れると決めている。湯気がたつことが肝心なのだ。湯気が鼻孔に運んでくるあの香りが。コーヒーは、香りが味を支配する飲み物だ。これは、23年間生きてきた僕の、数少ない美学の一つだった。
 コーヒーを淹れてリビングに戻る頃には、ニュースはスポーツコーナーに移っていた。今日は夏の甲子園の準決勝。第一試合は11時から。久々に見てみようかな。そんなことを思った矢先、僕はテレビを消した。チャイムが鳴ったからだ。ほぼ同時に、乱暴にドアがノックされる。
 ドアは、文明的なリズムで野蛮な鳴き声を挙げている。まったく、この国は。ノックの力加減を義務教育の必修科目にするべきだ。そんなジョークを用意しながらドアを開けると、スーツに身を包んだ筋肉質の男が一人、ドアの前に立っていた。この暑さの中、ジャケットまで着込んでいる。それにまだ若い。不思議なことに、男は汗一つかいていない。
「戸川蒼さんですか。少し、お話を伺いたくて。」
 男の顔は知らなかったが、彼が手に持っていた写真についてはよく知っていた。偽名を名乗ることもできたが、ここは一旦「トガワアオイ」として、彼の質問に答えなければいけないような気がした。どうぞ、と彼を家に招き入れた後、僕は再びこの来客にコーヒーを淹れる準備に取り掛かる。もちろんホットだ。だって湯気が大事だからね。コーヒーは。

                                                    ***
 確かに、僕とあの娘は付き合っていました。中学の頃の話ですよ。僕が15歳で、早生まれのあの娘はまだ14歳でした。付き合うといっても、思春期の恋愛なんて、たいしたことないですよ。人生最後のおままごとみたいなものです。
 僕は野球部でしたが、最後の夏の大会は早々に負けました。約2年半も打ち込んだ部活を失った僕は、普段は部活で埋まっていた放課後の空白を埋めるために読書をするようになりました。誰もいない教室に残って、一人で。
 色々読みましたよ。村上春樹や中原中也、テネシー・ウィリアムズにエラリー・クイーン。系統はバラバラだけど、あの頃の僕は、行く末を失った思春期の情動に居場所を与えられたら、何でもよかったんですよ。
 夏休みを直前にした、ある日のことでした。僕は一人で読書をするという新しい習慣を楽しんでいました。セミが鳴いていて、遠くからはあまり上手じゃないホルンやフルートの音が、途切れ途切れ聞こえてきました。教室のエアコンは授業が終ると消されてしまうため、窓を開けて涼を取っていました。
 読書への集中がふと途切れた時です。いつの間にか教室にあの娘が入ってきていることに気付いたんです。あの娘はおもむろに教室の端にあるオルガンの蓋を開けて、フランク・シナトラの「My way」を弾き始めました。僕の大嫌いな曲でした。僕の親父は、酒を飲んで上機嫌になると、よく大声でこの曲を歌っていました。当時の僕は、この曲を聴くと、親父から漂ってくる、ウイスキーとセブンスターの煙が交じり合ったあの悪臭を、しばしば思い出していたように思います。
 演奏を止めることも申し訳ないと思った僕は、しばらくあの娘の後ろ姿を眺めることにしました。揺れるポニーテールや、汗を浮かせた真っ白なうなじ。白いシャツに薄っすらと透ける下着の紐や、鍵盤の上を踊るか細い指たち。演奏が終わると、僕は彼女に声をかけました。
「僕、その曲が大嫌いなんだ。」
 彼女は振り向かずに、「しっかり聴いてたくせに。」と咎めるように言い返してきました。彼女は席を立ち、僕の目の前までやって来ると、僕の机に手をつきました。僕とあの娘は向き合う格好になりました。たわんだシャツの襟から、彼女の胸が覗いていて、中学生の割には大きい胸だったことを覚えています。やんわりと、シトラスの制汗剤の匂いがしました。
 僕たちはその後、色んな話をしました。覚えているのは、僕もあの娘もハードボイルドが嫌いで、エドガー・アラン・ポーの『黒猫』をあまり好かなかったこと。お互い地元の花火大会に一緒に行く相手がいないのをからかい合ったこと。『オータム・イン・ニューヨーク』のリチャード・ギアが素敵だと彼女が言っていたこと。『アルジャーノンに花束を』の映画版はいまいちという見解が一致したこと。
 それから僕とあの娘は、時々放課後の教室で密会を重ねるようになりました。僕は本を読んでいて、あの娘によくオルガンを弾いてもらっていました。腕前は普通の中学生と同じで、目を見張るほど上手かったわけではないけど、吹奏楽部の切れ切れのパート練習よりは随分とマシなBGMでした。
 あの娘のレパートリーは多かったですね。穏やかな曲が得意だと言っていました。ドビュッシーの「月の光」「アラベスク第1番」や、サティの「ジムノペディ」などをよく弾いてくれました。僕は、彼女のショパンが好きで、「ノクターン」や「別れの曲」をよくリクエストしていました。
 そして、いつの間にか僕たちは、いくつかの約束を交わすようになっていました。手を繋いで帰ること。花火大会に一緒に行くこと。あの娘の顔色を察して、さりげなく「好き」と囁くこと。別れ際にはあの娘を抱きしめて、キスをしてから帰ること。その他、諸々のことを。

                                                   ***
「すみません、煙草…いいですか?」
 男が胸ポケットに隠していたラッキーストライクを片手に僕に尋ねてきたのは、午前11時のことだった。予定通りなら、甲子園の準決勝第1試合が始まっているはずだ。
「気にしないで下さい。僕も吸いますから。」
 そう言って、僕は彼の前に灰皿を滑らせた。男がラッキーストライクを燻らせながら、「どうぞ、続きをお願いします。」と言った。僕も、セブンスターに火を着けてから、話の続きを始める。

続く

さんぴん倶楽部  古河 巡/Meguru Furukawa