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「床屋」と書いて「ジャンプ」と読む。漢字テストに出たって「ジャンプ」と書く。

人には生きていく上でどうしてもやっていかなければならないことがいくつかある。いや、けっこうある。うわ、かなりある。
今回話したいのは、「ご飯を食べること」とか「睡眠をとること」とか「上空に放り投げたマシュマロが落ちてくるまでに、くるっと一回転しお口でマシュマロキャッチを朝晩すること」とかそういった生命を維持していく上で必須となる活動のことではない。

本当だったらやってもやらなくても命に別状はないんだけど、人としてやらないわけにはいかないよねっていうことだ。
だからそれが何かっていうことをいつまでも書かない悪癖よ。

例えば、爪を切ること。
例えば、髪を切ること。

自由でいいのよ、本当は。切らなくたっていいの。でもね、ごく一般的な文化的生活を送っていく上で、髪も爪もズボンにはさまって尻尾みたくなっちゃったトイレットペーパーもいつまでものばしておくわけにはいかないでしょう。

そんなことをぼんやりと考えていると、子供の頃の散髪について思い出した。

私は床屋が大好きだった。コンビニの雑誌売り場や本屋さんと同じくらい好きだった。なぜなら、床屋に行けばジャンプが読めたから。床屋というかジャンプ屋だ。

そもそも子供の頃から一般的な文化的生活というものに露ほどの関心も抱かなかった私は、髪の毛のことなんかどうだっていいと思っていたわけだが、ぼさぼさに伸びてくると決まって母親に床屋に行け、行かねば舌を引っこ抜くぞと脅され、しぶしぶ髪を切りにいくわけだ。どうせ切るなら舌より髪というわけだ。

どこに行くにしても混んでいれば舌打ち、空いていればにんまりとするのが人間というものだ。
だが、床屋に行くときの私は混んでいることを望んだ。待ち時間が多ければ多いほど、ジャンプを読める時間も増えるというわけだ。

私は熱中して読んだ。読みふける、とはまさにこういうときに使う言葉なのだろう。先客のカットが終わり、私の番がきても、私はジャンプから目をはなせなかった。だって読みふけっているのだもの。
もういっそ諦めればいいのに、床屋さんは懲りずに私を呼ぶ。だが、私は目を開くことに全身の「開くパワー」を使っているため、耳は閉めていたのだ。
そんな私をみかねて、床屋のおじさんは「切ってる間も読むかい?」と子供の憧れである【散髪中ジャンプ】を許可してくださった。

カットが終わり、後頭部を鏡で見させられ、「どうかな」と聞かれたってこっちは「セルゲーム……ぱねえ」としか言いようがない。

これでようやくうっとうしい客が帰ってくれると、床屋さんは胸をなでおろしたことだろう。私はお財布から帯のついた札束を取り出し、高級お坊ちゃまカット~金粉添え~の支払いを済ませる。そして、再び待合席に戻り、ジャンプの世界へ没入するのだ。家に帰ったときに言おうと喉の奥で温めておいた「ただいま」をジャンプに向かって言ってしまうのだ。

そんな調子で床屋に行くたびにジャンプを読んでいると、なんと、ついに、私のジャンプ愛が伝わったのか、巻末に掲載されている「ハガキ戦士 ジャンプ団」の読者投稿コーナーに私のネタが掲載されるようになったではないか。どこに愛を伝えているのだ。

愛が伝わったのは床屋のおじさんにだ。

床屋さんは、古くなったジャンプなら持って行っていいよ、と私にお声がけくださった。
いつまでも私が床屋に居座り、いずれはお菓子なんか持ち込んだり、しまいには布団なんかを持ち込んだり、最終的に床屋さんの入り口に私の苗字の表札なんかを掲げたりすることを危惧したのかもしれない。
いや、そうではない。単純に親切なおじさんだったのだ。

気のいい床屋のおじさんのおかげで、私の少年時代の風景はモノクロからカラーに変わった。学校という試練に耐えた後は、自室でゆっくりジャンプ。読み終わったらまた初めからジャンプ。ときには後ろのページから逆に読んでいくという意味わからん読み方でジャンプ。

本当にいい床屋さんだった。あの床屋さんがなければ、きっと今頃、私の髪はくるぶしあたりまで伸びていたことだろう。そして「超サイヤ人3だ! うわっはっはっは!」と年甲斐もなく駅前あたりで騒いでいたことだろう。

そんな私も今では大人。【床屋さんにもらったジャンプ】が、いつしか【毎週自分で買うジャンプ】に変わり、気がつけば【表紙に知らない漫画が載っているジャンプ】に変わってしまった。

今、私の息子はコロコロコミックを買っている。
私もそうだった。少年漫画の入り口だ。
ここから少しずつジャンプ購入への道へ進んで行くように、息子を毎日毎日洗脳しているところでございます。

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