見出し画像

全ての駄文はTwitter様の文字数制限の前にひれ伏すのだ!わーっはっはっはっ!

この年になって、こんなハイテクな時代になって、初めて本格的にTwitterを始めてみた。
年寄りの悪い癖で、ついつい「わしの若い頃には……」なんて言いたくもなる。そんなことを言うと若い連中に煙たがられてしまうので普段は言わないように気をつけているのじゃが、ここはあえて言わせてもらうのじゃ。「わしの若い頃には、Twitterなんかなくての。遠方の人間になにか伝えるときにはの……なに? 手紙だろって? おぬし、まだまだ若いのぉ。それじゃあ、伝書鳩だって? かっかっか。ちゃんちゃらおかしいわい。矢文? 飛脚? おいおい、おぬし、わしのこといつの時代の人間だと……えっ? 結局なにかって? それはあれじゃよ。遠くの人になにか伝える時にはの、とにかく大声を出すんじゃ。はっ? 今、鼻で笑った? クオリティの低いボケじゃと? 生意気ぬかしおって、この青二才が! 今の面白いじゃないか! 若い頃を回顧すると見せかけてもっと昔の江戸時代辺りを彷彿させるかと思いきや、その上をいく原始的な方法を提示するという、ハイセンスのボケじゃないか! なんじゃと? うるさい? だいたいおぬしは……」
本当にうるさい。
くだらない文章で読者様の瞳に無駄にブルーライトを照射する時間を長引かせるなよ。


Twitterに投稿するにあたって、140字という難しさを痛感している。

長ったらしい、読んでいて眠くなるような文章は、141文字目からその存在を否定され、亡き者として扱われる。いつも私がnoteに投稿している記事だったら、みんなとっくに斬首の刑に処されているところだ。
文章としての存在意義を確立させるためには、せっせと削って削って140文字以内に収める努力をしなければならない。

何を書いていてもそうだが、無駄を省くという作業は非常に大切なことだ。とほぼ無駄しか書いていない私がなにか偉そうに言っているわよ、おほほほ。

小説(特に掌編)を書いていると、字数制限のためになくなく一度書いたファンタスティックかつエクセレントなワンダフォー文章(自分でそう思う文章はだいたいがクソである)を削るということもよくある。最初は涙を流し、歯を食いしばり、彼との思い出に浸り、震える指でDELキーを押すのだが、後から消したところを読み返してみると、逆にさっぱりとまとまっていて読みやすかったりする。

なにかを伝えようと必死に頭を絞ると、どうしても余計なことまでごてごてと飾りつけたくなってしまう。
それをさせてくれないのが、文章の大審判の異名を欲しいがままにするTwitterだ。

長ったらしくくだらない文章になりそうだぞ、と思ったらすぐにツイート編集画面の下部に「あと○○文字以内に終わるんだろうな、この駄文製造機め」と残りの文字数を教えてくれる。

長―く言いたいことをコンパクトにまとめさせることだけが、Twitterの良いところではない。逆もまたしかりではないかと思う。

たとえば、誰かになにかお礼をいいたいとき。
「ありがとう」の5文字でも意味は伝わる。「あざす」の3文字だってまあ意味は伝わる。
文脈によっては「あす」だけでも伝わるかもしれない。以心伝心の仲だったら「あ」だけでも伝わるかも。超能力者同士のやり取りなら何も入力しなくてもテレパシーで届くのかもしれない。じゃあツイートしなくていいじゃん。

とにかく、短い言葉でも意味は届く。

だが、感謝の意を伝えたいというときに、本当に「ありがとう」の5文字だけでいいだろうか。すっかすかのツイート編集画面を見て、虚しい気持ちになりはしないだろうか。

うーん、それなら、もうちょっと何かを足してみようかな、と思う可能性も当然出てくるだろう。どうせ140字入るのならもう少し何か言葉をつけ加えてみよう、と考えることで、文章をひねり出す癖がつく。普段、文章を書く習慣がない人でも少し凝ったツイートを考えるという行為だけで、頭の体操になると思う。

長いものはよりすっきりと、短いものには肉付けしておめかしを。

昨今、文章力の低下やコミュニケーション能力の低下が叫ばれてはいるが、実際のところ、Twitterのようなツールを上手に用いることで、それらの能力は向上しているのではないかとも感じる今日この頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか。と冒頭に言いがちなご挨拶の文をもって、お話を終わらせるという妙技。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?