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私の価値


今日は自己の価値を未だに見出せない餓鬼の戯言を少々。


私は、自分のお金は自分で賄うべきだと思う。そして、自分にそれが出来ないようなら、私は潔く死を選べると思う。
人(主に家族とか自分の周りの人)に迷惑をかけることが、私にとって1番自分自身の価値を失う行為であって、せめても迷惑をかけずにいることで、私は今生きているから。

そもそもこれは、私が「人生本当にどうしようもなくなったら最悪死のう」「私は長生きしなくていい」という考えを持っていることを念頭にみてほしい。

私はまず、家族__とりわけ両親には幸せであって欲しいと思う。そして、私がその幸せのうちのいくらかをあげられたらといいなと思う。

綺麗事を言っているつもりはない。
反抗期を疑うくらい、両親を鬱陶しく感じることもある。憎くて、憎くて、しんでしまえと泣いた夜もある。
でも今の私は、両親には、私を産み育て、費やしてきた時間や人生を後悔して欲しくないと思う。
これは去年、自分にどうしたって価値を見いだせなかった時に気づいたことだ。

私自身は私がこのまま消えてしまっても、まあ構わないなと思う。生きていたら、幸せを感じる瞬間も、それなりにあるんだろうと思うから、それを知らずに終わるのは、少し名残惜しく思うかもしれないけど。それでも基本的に、私は将来に希望を持っていないし、別にどうせいつかしぬのなら、それは今でも構わないのだ。
私の死が、私だけの問題であれば。

"私がしんだら、どうしたって家族は巻き込むことになる。"
しにたいと願い続ける日々の中で、いつしか私はこのような考えに至った。

私が今ここで、自分の身勝手な意思だけでしんでしまったら、それまで20年間も私のために費やしてきた父と母のその人生をも殺すことになるんじゃないかと。そう思った。もちろん、これは私がそう思うだけで、その選択をした人を否定してる訳じゃない。

私が衣食住のなにも不自由することなく生きてきて、幼い頃は毎年のように旅行やキャンプにも連れて行ってもらって。毎年誕生日プレゼントだってもらったし、サンタさんもきた。

そうやって私が幸せを享受する一方で、引き換えにされた父と母の時間がある。膨大な時間と労力と努力が。
そして、これは全て、父や母にとっては全て無償の献身なのだ。
私が将来親孝行をする保証はどこにもない。可愛い子供でもなかったし、出来の良い子でもない。
つまり、リアルタイムでのリターンはないし、後のリターンもあるか分からない不確実なもの。

愛とかはよく分からないけど、父と母のその見返りのないそれは、愛なんだろうなと思う。

私はその愛に応えられるほどの人間なのだろうか。

自分に自問した。

自問して私は、私が自分で死を選ぶことは、出来ないなと思った。
私は、両親のこれまでの愛を、ただの愚行にはしたくないと思った。

これは、人のためとか優しさとかじゃなくて、ただ自分がそうなることを許せなかった。
本当の本当に、私の価値がなくなると思った。


次に、ただの愚行にしないために、私は何をすべきかを考えた。

第一に、自死を選ばないこと。
第二に、自立すること。
第三に、両親を幸せにすること。

私はこの、3つの柱を考えた。
第一は多分、今のところは大丈夫。これは前述した通り、私の両親がいる限り、貫き通したいと思っているから。

第二は、今まさに立ちはだかっている壁で、これが中々に手強そう。就活のモチベーションはこれ。

第三は、旅行へ連れて行ったりとか、一緒に美味しいご飯食べたりとか未来の話になってくるけど。でも、今でもできることは結構あったりする。
例えば、いつしか手紙を入れなくなってしまった、毎年渡している誕生日プレゼント。
最近は小さなメッセージカードにちょこっとだけど感謝の気持ちとか書いてみたり、している。(メンタルは反抗期中学生だから、結構恥ずかしい。笑)

例えば、いつも適当に流してしまう母の長話に付き合ってみたり。イヤホンつけて聞こえないふりをしてしまう父のつぶやきを拾ってみたり。

めちゃくちゃ小さなベクトルの話だけど、意外とあったりするもので。逆に今までそんなこともしてこなかった自分を恥たりもするけど、今気付けて改善してるから許してねと思ってみたり。

父と母の注いだ無償の愛は、時間は、無駄じゃないと、私自身を持って証明したいと思うのだ。そしてそれが、私がこの世に存在してもいい価値になる。


邪な気持ちでごめんね、と思うけど、私は何ももってないから、許してほしい。



今日もとっ散らかった文章をここまで読んでくださった方に、良いことがありますよーに。

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