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骨折体験記

サイクリング中の自損事故

サイクリングプラン

2022年9月13日、院試明けに瀬戸内で一人旅をしていた私は早朝から松山のホテルを発ちJRで八幡浜へと向かった。八幡浜は日本列島で最も細長い半島として知られる佐田岬半島の付け根にある、人口3万人程度の小さな都市である。佐田岬半島を含め愛媛県の西部はリアス海岸が発達していて風光明媚であり、このあたりをサイクリングするのはさぞかし気持ち良いだろうと考え前日に急遽八幡浜から佐田岬を目指すサイクリング計画を立てた。幸い佐田岬半島にはレンタサイクルショップが八幡浜をはじめ数か所にあり、ある場所で借りて別の場所で返却するということもできるようであった。

3日前に尾道から今治の瀬戸内しまなみ海道76 kmをクロスバイクで走破していたが、普段デスクワークばかりで激しい運動をしない自分にはアップダウンがきつく、2, 3度限界突破して何とかゴールインできたという有様だった。佐田岬半島のサイクリングコースを調べてみると、距離は片道50-60 km程度だが高低差が200 m弱と瀬戸内しまなみ海道の2倍程度あった。非電動でこのコースに挑むと帰えれぬ人となることが容易に推測されたので、E-bikeという車種を予約し、八幡浜で借りて佐田岬の少し手前にある三崎で返却するプランを立てた。八幡浜から佐田岬まで行き、三崎まで戻るという60-70 km程度のコースだ。

図1. 佐田岬半島

当日は天気も良く、美しい景色の中を自転車で突っ走るのは快感でしかなかった。途中には温泉があったり、伊方原発反対の横断幕があったり、青色LEDでノーベル賞を受賞した中村修二先生生誕の地の記念碑やちょっとした展示がある休憩場があったりした。事前の調査通り高低差はかなり厳しい。佐田岬メロディーラインとして知られる国道197号線はそうでもないのだが、海沿いの道は入り江にある漁村同士を繋いでいるため何度もせり出した尾根を越えなければならず、勾配の大きい坂がいくつもあった。しかしE-bikeの最高出力をもってすれば急勾配の坂も途端にヌルゲーへと様変わりする。文明の恩恵をフル活用しつつ快調に山道を走っていた。

図2. 佐田岬半島の景観
図3. 中村修二博士の記念碑

事故に至る経緯

海沿いのコースの激しい高低差は電動アシストによって大して問題にならなかったが、別の面倒さがあった。当たり前だが尾根を越える際の道は曲がりくねっていているため、分岐に差し掛かったとき局所的に方角が合っている方を選んでも大域的には全く別の方向へ進んでしまうことがある。借りていたE-bikeにはスマホを固定するパーツなどはついていなかったので、分岐に差し掛かるたびに自転車を止め、Google Mapで道を確認しなくてはならなかった。これを次第に億劫に感じるようになり、ついに途中で国道197号線へ入った。

40 kmあまり走ったところで、右手に瀬戸アグリトピアの案内標識が見えた。9:40頃にスタートしていたのだが既に時刻は正午近くなり腹も減ってきていたので、レストランがあると期待して国道を外れ、山道を登った。頂上にたどり着くと田舎にしては立派な施設があったが、人が見当たらない。中を伺うと食堂らしき見た目の部屋もあるが、照明が落ちていた。仕方ないので昼食は諦めて、景色をしばらく堪能することにした。後からわかったことだが、瀬戸アグリトピアは体験農場などが近くにある自然体験宿泊施設で、自分が見ていた建物は宿泊用ログハウスらしく、そもそもレストランなどはなかったようだ。

図4.瀬戸アグリトピア

素晴らしい景色を目に焼き付けながら水分補給をした後、再び佐田岬を目指し出発した。まずは国道に戻るため、登りはE-bikeでさえ息が切れるほどだった急勾配の坂を下っていく。ここでふと、この坂なら50 km/hくらい出せるのではないかという考えが脳裏に浮かんだ。借りていたE-bikeは液晶モニターがついていて、電動アシストの出力や総走行距離、そして時速がデジタル表示される。ここまでは平地を25 km/h弱、下り坂は30 - 40 km/h程度で走行していた。今下っている坂は直線部分が長い上に、綺麗に舗装されていて地面の凹凸が少なく、交通量も全くない。スピードを出すには好条件だ。私は時々好奇心が変なベクトルへ向くことがあるのだが、結果的に最悪なタイミングで最悪な方向に向いてしまった。

ブレーキをかけずに放置しているだけで急速に加速していく。もともと遊園地に行ったら絶叫系に乗りまくるタイプなので、猛スピードで空気を切り裂いてく感覚がたまらない。しかし爽快感のあまり単純なことを見落としていた。ラグである。メーターの表示が50 km/hを超えたところでブレーキをかけ始めたのだが、次の瞬間には55 km/hをマークしていた。慌ててブレーキを強めるもみるみるうちにヘアピンカーブが迫り、かろうじて40 km/hを下回るところまでしか減速できずにカーブへ突入した。このままだと曲がり切れずに急斜面へと飛び出してしまうと直感した私は、ブレーキをかけながら車体を傾け、さらにハンドルを切るという大悪手を繰り出した。普段ほぼ無意識で曲がっているので、いざしっかり曲がろうとしても何をすれば良いかわからず咄嗟に意味不明な操作をしてしまったのだろう。当然車体の角度やハンドルの角度が大きくぐらつき、私は推定30 - 40 km/h程度で斜め前方へ射出された。この際の衝撃を幾許と捉えるかは人それぞれだろうが、ウサイン・ボルトが全力で転んだ程度と見れば擦り傷・打撲で済みそうなものである。ただ、私は自分の姿勢も把握できぬまま道路へ激突し、2, 3回転しながら下り坂を転がった。

図5. 事故現場

事故後の経緯

道路へ激突した瞬間右手首に痛みが走った。下り坂を転がっている途中に体のあちこちをぶつけていたが、右手首の痛みが支配的だった。借りた自転車の容態が心配だったが、転倒直後は道路の端まで寄って蹲り、呼吸を整え痛みが引くのを待つのがやっとだった。ただ感覚としては重めの打撲のような感じで目立った出血もなく、1分ほどで痛みはかなり落ち着いた。自転車の方に目をやると転倒した場所でそのまま内側へ倒れていた。左手で自転車を起こしながらあちこち確認すると、なんとほぼ無傷であった。すでに1週間を超す旅でかなりの諭吉が財布を去っていたので、弁償しなくて良さそうだとわかり心底安堵した。

腫れてきた右手首を飲料水のペットボトルでアイシングのものまねをした。このときは右手首も痛いとはいえ動かすことができていたので、重めの内出血か骨にひびが入った程度ではないかと何の知識も無い中考えていた。骨折の経験が無いので、痛みの程度や適切な処置などが全くわからなかったのである。20分ほど経っても依然として右手に負荷がかかると痛みが走り自転車には乗れそうもなかったが、両手で自転車を押して歩けるくらいには回復した。仕方がないので10 kmほど先にある三崎のレンタサイクルショップまで自転車を押していくことにした。三崎発八幡浜行きのバスが14:40に出たあと3時間は三崎から帰る手段が無いので、何が何でもあと2時間ほどで三崎にたどり着かないといけない。途中通り雨に降られたり、思わずカメラを構えたくなる絶景に出会ったりしたが、構わずノンストップで歩き続けた。
バスにはギリギリ間に合い、三崎から1時間弱かけて八幡浜まで戻った。懸命に自転車を押して歩いた2時間の道のりがあっという間に過ぎ去っていき虚しさを感じた。また、バスの中でようやくスマホをいじる余裕が出て、ツイートをしたり医療機関を調べたりしていた。色々と調べた結果松山まで戻ってから医療機関で受診することにした。

松山に戻るまでにだんだん痛みが強くなり、次第に右手を動かせなくなっていった。しかし目立つほど腫れているわけでも包帯やギプスをしているわけでもないので、衆人環視の中でペットボトルのキャップを口で咥え左手でペットボトルを回転させたり、口と左手を使って惣菜パンの袋を引きちぎったりという行動を取るにはメンタルの強さが求められた。

松山市民病院にたどり着いた頃には18:00を回っていた。既に本来の営業時間は超えていたため、救急外来という扱いになった。レントゲン検査の結果、「右橈骨遠位端骨折」と診断された。橈骨というのは上腕の2本の骨のうち親指側の骨であり、遠位端というのは橈骨の手首側(体幹から遠い側)を指すらしい。自分の場合は橈骨の骨折面が関節にかかる形で折れていて、さらに手の甲から手のひらの方向へずれていた。もともと翌日の昼に飛行機で帰る予定だったので、CT検査や手術の必要性については地元の総合病院で診断してくださいと言われ、その日はギプスで固定し鎮痛剤を処方されたのみだった。

図6. 骨折部位(右橈骨遠位端骨折)
出典: https://www.daylight-law.jp/accident/qa/qa63/

鎮痛剤を服用しているということもあり、ギプスで固定したあとは特に大した痛みを感じず安眠できた。翌日も午前中少し時間があったので松山城のすぐそばにある坂の上の雲ミュージアムを観光するくらいには元気だった。左手のみでスーツケースとリュックを運び帰宅するのは大変だったが、大学3年から4Sにかけての殺人的スケジュールに比べれば大した苦痛ではなかった。

詳細な診断結果

帰宅後すぐに自宅から徒歩5分の総合病院へと向かい、診察をしてもらった。CT検査をしたものの、手術の判断は手の手術を専門とする医者がいないとできないらしく、再び2日後の9月16日に診察を受けた。一刻も早く復帰したいので手術が不要であることを望んでいたが、願いも虚しく5, 6日の入院を伴う手術が必要と宣告された。深刻な折れ方をしているわけではないらしいが、骨折面が関節にかかりさらにずれてしまっているため、ずれを戻してチタンプレートで固定する手術をしないと一生手首の可動域が戻らなくなってしまう可能性があるそうだ。また、何故か局部麻酔ではなく全身麻酔が必要とのことだった。

この日は手術に関する詳細な説明を受けたほか、入院前に必要な検査を行った。もともと血を見ることすら苦手で医学部進学など初めから選択肢にすら入っていないような人間なので、手術や起こり得る副作用などの説明を受けている間冷や汗と顔の引きつりが止まらなかった。血液検査・尿検査・超音波検査・心電図・肺機能検査などを回るのも精神的にしんどかった。

入院

入院1日目(9月21日)

全身麻酔を行うには半日以上前からの絶飲食が必要である。全身麻酔では呼吸が止まるほど深い眠りに落ちるため、胃に物体が残っていると気道へ逆流する恐れがあるからだそうだ。よって、手術自体は9月22日なのだが前日から入院した。

まず、入院日の朝に病院へ赴きコロナのPCR検査を行った。鼻腔から細長い棒で検体を採取する例のやつだが、私はこれが大の苦手である。自分で抗体検査をやるときに突っ込む深さよりさらに5 cmほど奥へ突っ込まれるので、鼻腔の奥深さを物理的に痛感させられる。検査後は一度帰宅し、11:00頃に陰性の連絡を電話で受け、自宅で昼食を取ったあと14:00頃に再び病院へ出頭した(この間、13:00頃に院試の結果が出たが、何等かの研究室に合格したことしかわからず、指導教員は後日自宅に郵送される合格通知書を待たないとわからないとのことだった)。病院にはロクなアメニティが無く(ティッシュすら無い)、何も持って行かないと入院セットを有料で借りることになるため、片手でありとあらゆる日用品と服をスーツケースに詰め込んだ。また、5, 6日の入院ということで保存がきかない冷蔵庫の中身を全て食い尽くしておく必要があり、暴飲暴食を余儀なくされた。どうしても腹に詰め込めなかったバナナは皮を剥いだ上で冷凍室へシベリア送りにした。

最初に入退院サポートセンターで入院の手続きをした。左手で書いた可読性が低すぎる書類を提出し、何度かこの字は何か確認されながら手続きが進められた。また、保証金70,000円をこの段階で支払った。最終的に入院・手術費を支払うときに70,000円を差し引いた額を払うらしい。今回の一人旅の費用の半分以上が医療費になるのではないかという不安を抱きながら泣く泣く諭吉7枚を差し出した。また、入院が決まった時点で追加料金がかからない大部屋(4人部屋)を入院が決まった時点で希望していたのだが、一泊あたり22,000円もかかる個室しか空きが無いことが伝えられた。青ざめた顔で財布を握り締めそんな財力を持ち合わせていないことを伝えると、大変ありがたいことに空きが出るまで無料で個室を使わせて頂けることになった。

案内された個室は20平米弱と広々としており、シンプルながら自分好みのデザインの部屋だった。個室に入るとすぐ左手に洗面台があり、その奥にトイレ及びシャワー室があり、さらにその奥にはパラマウントベッド、収納スペースを兼ねたテレビ台、テレビ、勉強机、椅子、ワードローブなどが小綺麗に置かれた部屋が広がっている。通路はベッドや車いすが通れるように幅広く設計されていた。快適さで見ればアスナの病室に匹敵しているのではないかなどと考えつつ、いつまで続くかわからないVIP対応を味わうことにした。

15:00頃に個室に入ったあと、16:00頃にシャワーを浴び、17:00頃に点滴用の針を左の前腕に刺され、18:00頃に夕食を食べた。一人旅を通して皮がむけるほどの日焼けをしていたこともあって静脈の場所がわかりにくく、2回失敗したあとにようやく上手くいっていそうな感じに刺さった。上手く血管に刺さっているかは生理食塩水?が抵抗なく流れるかで確かめているようだった。点滴用の針を刺したのは1個上のお姉さんだったが、残念ながら私はドMではないらしく、何回も刺されるのはただただ痛かった。また、針を刺した後も腕を動かす度にチクチクと痛むので、これから数日この状態で過ごさなければいけないと考えると憂鬱だった。

入院生活はもちろん食事や睡眠などの時間が決まっているのだが、自分の生活習慣との時差が約5時間あり驚いた。私が入院した病院はハワイ時間(UTC-10:00)で動いていたのかもしれない。(自分の生活習慣がおかしいだけです、すみません)

表1. 入院中の生活リズム

この日は比較的早く寝落ちでき、朝5:00過ぎまで一度も目覚めず眠れた。

入院2日目(9月22日)

前日の夕食後から絶飲食がスタートしているので、起きても水を飲むことさえできない。しかし、特に強い空腹感も喉の渇きも感じることはなかった。起床後すぐ看護師さんがPCR検査のために鼻に棒を突っ込んで去っていった。9:00頃に再び看護師さんが来て、乳酸ナトリウムリンゲル液の点滴を始めた。点滴開始後、針が刺さっている付近を怪訝そうに二本指で叩いたり滴下速度を確かめたりしたのち、腕がむくれるようなことがあればナースコールしてくださいと言い残し去っていった。特に痛みは感じないので気にせずドイツ語の格変化を頭に叩き込んでいたのだが、次第に左手首を動かすと痺れを感じるようになってきた。3年前くらいに喘息の発作で点滴を受けたときはこんな感覚は無かったので不安になり、とりあえず前腕を注視することにした。腕の膨張速度はただ眺めていてわかるほど大きくないので、手元のスマホとの比較で前腕の太さを測ることでむくれているか判定した。しばらくナースコールするか葛藤していたが、11:00頃ついに腕が観測開始から1.2倍ほどにふくらみ、少し左手首を動かしただけで痺れと痛みを感じるようになり、いつの間にか骨折している右手首と同程度の可動域になっていたので流石にナースコールを押した。やってきた看護師は、「あー、漏れてますね」と赤裸々に呟きながら針を抜き、上腕に刺し替えた。今度は上手く刺さっているためか腕を激しく動かさない限りチクチク痛まず、上腕が膨張するようなこともなかった。また、このタイミングで手術着に着替えた。パンパンに膨らんだ前腕は次第に収縮していき、手術が始まる頃には可動域もほとんどもとに戻っていた。

11:30頃、看護師さんに連れられ点滴棒を転がしながら手術室へ移動した。教室くらいの広さの空間に強そうなマシンがいくつか配置されていて、中央にベッドが置かれていた。ベッドに仰向けで寝ると、青い手術衣と頭髪を覆う帽子を身に着けた看護師3人が手際よく動き、あっという間に心電図の電極やパルスオキシメーター、血圧計、酸素マスク、頭髪を覆う帽子などが取り付けられた。途中黒色のガスボンベが運ばれてきたのが見え、昔覚えたガスボンベの色を思い返した。全身麻酔の滴下が始まると数秒ほどで意識を失い、次の瞬間には「手術、無事終わりましたよ」と看護師の一人に告げられており、手術をした医師はもう去っていた。医師の登場を待たずに意識を失ったため、結局医師の姿さえ見ぬまま手術が終わったことになる。右手は局所麻酔のためか棒のように固まっていて、痺れはあるものの痛みは感じなかった。

麻酔から目が覚めた後は意識が曖昧な状態がしばらく続くらしい。確かに手術室から個室までベッドで運ばれたときの記憶は途切れ途切れであるが、個室に戻ったときには意識は明瞭になっており、看護師が医療器具の電源を繋いだり酸素マスクを壁の酸素給気口に繋いだりしていたのをはっきり記憶している。個室に戻ったのは13:00頃だったが、16:00まで安静を要求され、体を起こすことさえ禁じられた。時計が無くスマホも届かないので時刻がわからない。そんななか暇を潰さないといけないのは思ったより苦痛で、30分おきくらいに体温・血圧・酸素飽和度・脈拍などを計測しにくる看護師にときどき時刻を尋ねていた。初めは朝覚えたドイツ語の格変化を思い返したり素数を昇順に列挙したりしていたのだが、すぐに飽きてしまった。この時間を何とか有効利用できないかと思案した結果、酸素マスク越しに口笛の練習をすることにした。これまでも暇なときにYouTubeで口笛の吹き方の動画を5, 6本見てみたりしたのだが、風切音が出るだけで一度もまともに吹けたことがない。酸素マスクをしているとはいえ口元は自由に動かせたので何十通りもの口の形と舌の位置の組み合わせを試したが、一度ピューという音が出たのみで二度と再現されることはなかった。

ようやく16:00になり、酸素マスクと心電図の電極が外され、上体を起こすことが許可された。この日はお手洗いなどを除いてはベッドの上にいるように言われたが、スマホを触れるようになっただけで水を得た魚である。すぐさまスマホへと飛びつき、真っ先にTwitterを開いた。

18:00頃に夕食を食べた。24時間ぶりの食事だが、量は通常と同じであるため完食後も空腹感が残った。ここで入院中の食事について少し書いておこう。食事はもちろん患者一人一人の病状やアレルギーなどが考慮されたものが病室に運ばれてくる。機内食のようなbeef or chicken?的システムは存在せず、メニューの選択権は一切無かった。量は自分の場合は1日あたり2000 kcalで普段よりも少ないが、ずっと病室でじっとしているため飢えることはなかった。主菜は8割くらい魚で、全て骨抜きにされていたので左手だけでも難なく食べられた。いかにも安めの旅館の朝ごはんにでてきそうな、和風で控えめな味付けの料理が大半だった。

例によって21:00消灯なのだが、ほぼ一日ベッドに横たわっていたのでなかなか寝付けず、日付が変わるころにようやく眠りに入った。

入院3日目(9月23日)

2日連続PCR検査を受けていたので、PCR検査毎日説が濃厚となり、朝っぱらからびくびくしていた。しかし、この日行われたのはより苦手な血液検査だった。左腕は点滴、右腕は骨折のため腕から採血できず、人生で初めて足の甲から採血された。足の甲は腕より痛いという、使いどころのない知見を得た。

午前と夕食後に2回、約1時間の抗生物質の点滴を行ったのを除き、特に何もなかった。テレビでエンゼルスの試合を見たり、PCに予めダウンロードした音声を復唱しながらドイツ語の勉強をしたり、Twitterをしたりしながら一日を過ごした。

ちなみに、入院中は一日2, 3回体温・血圧・酸素飽和度・脈拍などの測定が行われる他、一日に一回お小水とお通じの回数を尋ねられる。よって、脳内にトイレカウンターを常設していつ聞かれても正確な回数を答えられるように対策した。だが悲しいことに、脳のスペックが残念すぎて5回を超えたあたりから回数に±1の不確かさが付くようになった。高校生くらいまではこんなことはなかったので、老いのせいということにさせて頂きたい。

入院4, 5日目(9月24, 25日)

入院4日目の朝、これまでの3度の経験から何らかの検査をされるだろうと警戒していたが、検査は何もなく代わりに空きが出た大部屋(4人部屋)への移動を命じられた。大部屋は左右と手前奥の2×2の形でカーテンで区切られており、私は右奥の区画へと案内された。一つ一つの区画に置かれている家具は個室と大差無いが、一つの区画がおよそ2.5 m四方と少し手狭で、お手洗いや洗面台、シャワーなどは共用だった。

カーテンで仕切られているだけなので、同室の人の物音や声などは直に聞こえた。看護師との会話も勿論筒抜けなのでプライバシーはあまり担保されていなかった。以下では、同室の左手前の区画のおじいさんをAさん、左奥の区画のおじいさんをBさんとしよう。右手前は何故か自分が退院するまで空きだった。

Aさんは病状があまり宜しくないらしく、ベッドから自力で上体を起こすことさえ不可能なようだった。お手洗いにも行けないのでオムツをはいており、定期的に看護師がオムツの交換をしていた。また持病に糖尿病があり、何度かインスリンの注射や血糖値測定を行っていた。ずっとベッドに寝ているためか食欲が無く、毎回もう食べたくないAさんと一口でも多く食べさせたい看護師の攻防を耳にすることになった。根は優しい方なのだろう、Aさんはよく「あんたも食べなさい」と言い自分の食事を看護師に食べさせようとしていた。その都度看護師さんは「私のは向こうに用意されているから大丈夫」などと言っていたのだが、Aさんは「早くしないとカラスが全部持ってっちゃう」と訴えていた。きっと小さいころ遠足でお弁当をカラスに食べられた経験があるのだろう。食べ物の恨みは怖いというのは本当のようだ。
BさんはAさんと比べれば比較的元気で、時折手押し車を押しながら病室から出ていき、お手洗いに行ったりフロアを散歩したりしていた。ただ、Bさんの生活リズムは食事を除けば昼と夜の区別がほとんど無く、半永久的に1時間くらい寝ては手押し車を押して歩くということを繰り返していた。

大部屋での入院生活で多くの人が苦痛に感じるのは睡眠だろう。老人の五月蠅い鼾、予知不能な呻き声、滑舌が悪すぎて何も聞き取れない独り言などが容赦なしに耳に入る。また、近くの病室の患者が夜に痛みを訴えてナースコールを押し、騒がしくなることもあった。私は寝付きが悪いので入眠には苦労したものの、擾乱耐性がかなり高いので一度眠れば朝まで起きることはなかった。私の睡眠の擾乱耐性の高さは、睡眠が本当に深いときは端末2台が同時に枕元で最大音量で鳴っても気づかないほどで、普段は絶起を量産するだけでマイナスでしかなかったが、今回ばかりはプラスに働いたようだ。

4日目にもなると指先は力は入らないがかなり動かせるようになり、じゃんけんでパー以外も出せるようになった。点滴も4日目に2回抗生物質を投与したのが最後で、4日目の夜に点滴の針から解放された。ただシャワーに入ることは結局退院時まで許可されなかった。
5日目は朝の検査すらなく、穏やかに1日が過ぎていった。

入院6日目・退院(9月26日)

前日の25日に退院できることが伝えられ、6日目の朝、朝食を取ったあと退院した。本来退院時に入院・手術費を支払うはずだが、手術で使用した薬剤と機器の値段の集計ができていないと告げられ、何も払わず帰宅した(執筆した10月4日時点でも未だ金額が確定していない)。

この日、自分の脳内は院試で支配されていた。帰宅後、流石にもう合格通知書は届いているだろうと真っ先に自宅のポストを覗き込んだ。しかし、そこには大量のチラシがあるのみで、思わずTwitterに愚痴をこぼした。5日ぶりのシャワーを浴びてくつろいでいると、バイクのエンジン音が聞こえてきた。走り去るのを待ってから郵便受けに出向くと、待ち望んだ合格通知書がガス料金の口座振替済領収書と共に投函されていた。左手で苦戦しながら開封すると第一志望の研究室の教員の名前が書かれたぺらっぺらな紙が現れ、思わず折れた右手でガッツポーズをした。

その後

退院後も週2回リハビリなどで通院している。退院直後は既に指は自由自在に動かせるようになっていたものの、右手首の可動域が通常の半分ほどしかなかった。可動域をもとに戻すには、日常生活の中でもできるだけ右手首を使い、暇さえあればリハビリのため教わった動きをするのが肝要らしい。

術後はかなり順調に回復しているらしく、退院から1週間あまり経った今、可動域は既に8割ほど戻っている。数kg程度のものなら右手でも持てるようになり、握力もJKの平均値くらいになった。右手をついて荷重をかけるトレーニングも予定より1週間早く開始した。このままいくと手術の傷跡を除けば後遺症無しで回復できそうで何よりである。

今右手首に埋め込まれたチタンプレートは、一年後に再び入院して手術で取り除く予定である。それが済んだら、骨折からの完全回復を祝して佐田岬半島へリベンジに行くとしよう。


余談だが、筆者は今回の骨折のため留学が2週間遅れる羽目になった。周囲に多大な迷惑をかけるのは勿論のこと、特に若いうちは大きな怪我をすると貴重な機会を失い兼ねないので、避けられる事故は未然に防ぎましょう(自戒)。

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