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99%ノンフィクションエッセイ「五線譜」


 「電線って、五線譜みたいだなぁ」

 大学四年の夏。最近は、卒業制作のために起床してはすぐにパソコンへ向かう日々を過ごしている。
今日もついさっきまでは液晶画面と向き合っていたが、息抜きがてらに洗濯物を取り込むことにした。家のベランダからは近所にあるスーパーやコンビニ、パチンコ屋という変哲のない景色を見ることができる。後は、電線。
 家から見えるその電線を眺めながら私が思うことはただ、ばかげた発想と不変的な時間への焦燥感であった。

 世界的な流行病のおかげで、私が思い描いていた理想的な、贅沢で自由な学びの期間の二分の一は掻き消されてしまったのだが、それももう早いもので四年目を迎えることができた。
“理想”というものは、人が「こうなると良いな」と想像する自分中心で考えた物事のことであり、現実で起こる“経験”とは乖離が生じる。個人的な見解であるが、人は結局自分自身の理想が現実に再現されたときに脳が快感を覚えるようになっているらしく、これに基づいて考えると、
“想像は経験には勝てない”
私はそう考えている。

 学ぶことは、私達にとっての権利ではあるが当たり前のことでは無い。学ぶことは贅沢なことなのだ。元々から肌身に感じてはいたが、自分自身が実際に大学という場所に進んでからはよりそれを痛感させられた。
しかし、私達にはその“贅沢”をする権利がある。誰であっても。

 私は幼い頃から「時間」に対する漠然とした疑問のようなものを持っていた。
しかし、その疑問というものは“原因を見つけて解決したい”と思う程のものでも無く、自分の内側だけで持つカラッとした諦観のようなものであった。成長途中の今でも尚それは消えることは無い。生まれ持ったものなのか、もしくは、ある“経験”がきっかけで生まれた感情であるのか。これは私自身でも答えを見出すことができない、埋まらない問いなのだろう。

 小学校低学年の頃、大体七、八歳の頃だろうか。私は初めて「尊敬」という感情を知った。
一度か二度、同じクラスになった匠くんという男の子がいた。私の記憶力は昨日の晩ご飯を覚えていられないほど壊滅的であるが彼との会話は朧気に覚えている。
私は彼を尊敬していた。そして、好きだった。
今となればそう表現できる。

「成績が良くて頭の良い子」

 クラスの中で三、四人はいそうな、ほとんどの教科のテストで九十点以上を取る優秀な子。匠くんはそんな子だった。彼とは反対に、私は自分が得意な学びだけ良い点数を取る、バランスの悪い子どもだった。
私は未熟ながらに、他の子と何か違うような不思議な違和感を彼に抱いていた。
ただ頭が良いというだけでは無く、自分とは違う視点で物事を見ているような、まるで哲学者のような達観した雰囲気があった。

「匠くん、ピアノ弾けるん?」

ある日の放課後。

私と彼は班が同じだったため、週替わりの掃除当番で音楽室の掃除をしていた。
数日前の音楽の授業で彼が先生に勧められ、手本として簡単な曲をピアノで演奏していたことを思い出し、私は雑巾でピアノを撫でるように乾拭きしながら、ほうきで床を掃いている彼に訊いた。

「まだ習ってちょっとしか経ってないけどね。」

 遠慮と謙遜が込められたような、彼の性格を要約したような返答であった。
匠くんは身長順に並ぶと前から数えたほうが早い程の小柄な体型だったが、それと相反して中身の器の大きさはそれを感じさせないほど寛大であった。

「じゃあ、ちょっと弾いてみてや!」

まだ失礼も知らない屈託の無い好奇心が、彼に向く。私はただ純粋に、彼の話を聞きたかったのだ。

「えー、掃除中やで?」

真面目な性格が反映されている。それと同時に、彼は満更でも無い表情を浮かべてみせた。
それはそうだ。ただでさえ窓を全開にしている掃除の時間に“猫踏んじゃった”と奏でてしまうと校内に響き渡り、職員室まで丸聞こえだ。

「大丈夫、ばれへんって!」

「ピアノは先生が使うものやん。」

「じゃあこっちのオルガンで!」

「怒られても知らんで?」

「大丈夫、私は走って逃げれるから、匠くんはピアノの下にでも隠れたらいいよ!」

失礼極まり無い頼み事をした上に彼を犠牲に助かろうとした自分の無責任さと、彼の懐の深さは実に対極的である。
この後実際に先生に怒られたかどうかは、あまり記憶に残っていない。おそらく怒られていない。そう信じたい。

「んー、じゃあ、何が良い?」

 リクエストを求められるとは予想しておらず、一瞬戸惑ってしまったが、正直な話、私は彼がピアノを弾く姿を見るだけで充分だったためその場で浮かんだ曲を適当にリクエストした。

「小崎裕って知ってる?」

 先週テレビで放送されていた“昭和の懐メロ百選”という特番の中で印象に残っていたミュージシャンである。また、私が人生で初めて“好きだ”と認識したアーティストでもある。
私は小崎がピアノを演奏しながら歌う姿を見て、
“なぜこの人は泣いているのだろうか?”
そう感じたのを今でも覚えている。
その姿が脳裏に焼き付いていたために、同じくピアノを弾くことができる彼に期待を寄せていたのだろう。

「あー、少しなら曲弾けるかも」

少し頭を悩ませながら彼はオルガンの手前にある椅子を引いて座り、蓋を開けた。

「どんなんやったっけなぁ」

“ドー、レ、レ、ミー”

 指鳴らしをしながら音階を確認する真剣な彼の表情は、自分と同じ小学生とは到底考えられないほど大人びていた。
個人的に、ピアノは楽器の中で最も複雑な楽器だと認識している。黒と白というシンプルな見た目とは裏腹に、88の音を鳴らすことができる幅の広さと自由さがあり、それはまさに音楽の土台なのだろうなと感じていた。
そのような奥深い楽器を理解して使いこなすことができる人に尊敬の念が湧く。それ以上にその人自身が複雑なのではないかと勝手に予想しているからである。

“I miss you ~”

小崎のあの曲だった。
十秒程度鍵盤を触っただけで、ましてや楽譜無しで曲を再現できたことに私は驚き、胸が高鳴った。

“ミ、シー、ド♯ー...”

二回ほど繰り返したところで彼はピアノを弾く指を止めた。

「ここまでしか覚えてないや、ごめん。」

彼は悔しそうな顔をしていたが、あまりの再現度の高さだったため私は思わず彼に訊いた。

「もしかして泣いてた?」

「泣いてたって、なんで?」

なんて変なことを言ってしまったのだ、と反省する。涙も出ていないのに「泣いた」なんて、それはおかしなことだろう。疑問に思われても仕方が無い。

「いや、小崎は泣いててんで。」

実際には小崎も泣いてはいなかった。
ただ勝手に私が感想として「泣いていた」ように感じただけであり、誰も涙なんて流していなかったのである。
しかし、小崎の声は泣いていた。それは悲しみという感情よりも寂しさという感情のような気がした。
その頃からだろうか、私は音楽に対して興味を持つようになった。小崎と匠くんの影響で。

「でも、曲を聴いて“泣いていた”って感じたのは、僕は良いなと思ったよ」

私は目から鱗だった。
どのように反応すれば良いのか分からず、自分の考えが変だと思っていた訳では無いが、受け入れられるとも予想していなかった。

「なんで良いなと思ったん?」

「だって、見えないものが感じられたってことやん?音楽って、そういうものなんじゃないかなって僕は思ってて。音だけで目には見えないものやから、ちーちゃんは正しく音楽を見れてるのかなって思ったで。」

彼に言われたことは、感覚的ではあるが私の腑に落ちた。子供ながらに捉えられるものは多かったのかもしれない。

“音楽を見ている”

自分自身が思いもつかなかった新しい視点を、彼は小学生ながらに他人に言葉として伝え、影響を与えた。この言葉は今でも私の記憶に残っている。



「ただいまー!」


「お。おかえりぃ」

 私の両親は共働きだったため時々一人で留守番をすることもあったが、父か母どちらかが休みの日以外はほとんど祖母が夕飯が済むまで家にいてくれていた。それから、近所に住んでいる父のご兄妹である叔母もいたため、深夜まで家で一人でいるということはあまり無かった。
祖母が来たときは、ずっと家に籠っているという訳ではなく近所のスーパーに買い物へ行ったり、公園へ行って好き勝手遊ばせてくれたりもした。

私は、祖母の絶妙な距離感は凄くありがたかったと今でも思っている。
私は無意識のうちに恵まれていた。


「今日もアジフライにしよう!」

 祖母との夕飯の時間で最も記憶に残っているメニューはスーパーで買ったアジフライ。
おそらく週に三、四回は夕飯のメニューに組み込まれていたほどであった。今となればなぜあれほどアジフライにハマっていたのか想像がつかないけれども、祖母は肉類や魚類、野菜類など、偏りなくご飯を食べさせてくれていた。そのためか、私は嫌いな食べ物というものがあまり無い。強いて言えばトマトくらい。

 “魚を食べると頭が良くなる”という説は、詳しくは魚に含まれる成分が脳の記憶能力などの向上に効果的であるから、という理由らしく、私は今でも魚を積極的に食べることを意識しているのだが果たしてこれは本当なのだろうか。一向に記憶力が上がる気配を感じない。むしろ徐々に衰えを感じてしまう。
大人になるにつれ自然と“経験”が増えることによって、良くも悪くも理解できることが増えていくと段々と“興味”を持てることが少なくなってしまうのかもしれない。これを自らの記憶力の衰退の原因だと言ってしまうと他責のようであるから、私は自分から物事に“興味”を持ちたいと考えている。

それは他人に対してでもある。



「また95点取ってたの凄いね!」

 その日は算数のテストの返却日だった。匠くんは科目関係無く平均して良い点数を取るため、それが普通のように感じてしまうけれどそれは本人が普段から勉強をしている証拠なのだろう。やっているから結果が出る、至極真っ当なことである。
それに対して自己最低点の70点を叩き出した私。
小学校低学年の難易度で算数の壁にぶつかってしまうのは致命的だった。

「私算数苦手すぎるから匠くん教えて!」

休み時間に好きな子と話すための口実。
いかにも小学校低学年の男子がしそうな言動である。

「良いけど得意ってほどでも無いで?」

次の算数のテストの日まで私は彼と特訓した。
休み時間や授業の自由時間には宿題や計算ドリルの難易度の高い問題を一緒に解いたり、反対に私が国語の文章問題のコツを彼に伝授したりと、お互いの苦手な部分を補い合える学習ができていた。

それほど好きでは無かった勉強がなぜか楽しかった。


 次の算数のテストの返却日。
そのときは分数や少数の基礎半分と応用半分の単元だっただろうか。特別苦手では無かったけれども得意というほどでも無かった。自信は六割程度。
しかし、匠くんが勉強時間を割いて私に共有してくれた時間を無駄にはしたくなかったため、そのときのベストは尽くした。

「じゃあ、次ー」

私の解答用紙授与の番。立ちあがろうとしたがそういえば私は一番前の教卓の横の席だったため、先生直々に席へ来てくださった。
テストの結果はどうしても二人で見たいと思い、授業が終わるまで私は点数を見ずに我慢した。

“キーンコーン、カーンコーン”

授業が終わると同時に私は一番後ろの席に座っていた匠くんの元へ向かった。

「匠くん何点だった?」

「まだ見てない!」

なんと彼も同じく、せっかくの機会だから一緒に点数を見たいと考えてくれていたらしい。
私は感じたことのない嬉しさと少しの恥じらいを感じた。

「じゃあ、せーので見ようや!」

「せーの…」

折り返していた解答用紙の角を一緒に開いた。

匠くんはなんと100点だった。
そして私は、

「え、間違って無いよな!?」

解答用紙の名前を何回も確認した。自分の名前だった。

「95点!凄くない?」

算数での自己最高得点を叩き出したのである。

「めちゃくちゃ凄いやん!それくらい勉強したってことやんな!僕も嬉しい!」

自分の方が満点で嬉しかったはずなのに、彼は私の点数に喜んでくれた。

「でも、匠くんは100点やん!凄すぎる。」

「これはまぐれでしょー。」

どこまで謙虚で冷静なのだろうか。
しかし、彼も私もこんな結果になるほど勉強に取り組んだのは紛れもない事実だ。
それを私達は知っている。成功体験というものは一人で経験するよりも誰かと一緒に経験した方がより達成感を感じることができるのだと、実感した。

 小学校高学年になると、私と匠くんは同じクラスになることは無かった。学校における人間関係でよくあることだが、同じクラスという共通点は大きなものでクラスが離れた途端に接点が無くなってしまう。それでも口実を作って会いたい人が自分にとって大事な人なのだとも思う。
時々、学校行事や廊下で彼を見かけることはあったが、いざとなると何を話せば良いのか分からなくなり「おはよう」と軽く挨拶をする程度の関係になっていた。

 それからの学校生活では、彼と何かをする時間というものは特に無かった。あったのかもしれないけれども記憶に無い。毎年行われるクラス替えでも新しい友達はできていたし、それなりに充実した日々を過ごせていたからかもしれない。
ただ、あの日以上の達成感を感じられる瞬間は無かった。


 小学校を卒業し、中学一年になった頃。私の通っていた中学校は地域の三つの小学校を中心に生徒が集まって構成されていたため、一学年に七クラスの学級が作られていた。大体この時期から、人は社会における複雑な人間関係というものに直面せざるを得なくなる。
それであっても、自分が人にどのように接したいかはまた別の話だ。
私は自然と、小学校の頃の匠くんという存在を自分の憧れという風に意識するようになっていたのだろう。
他人を理解できなくとも受け入れることができるような器の大きい人間でありたい、と無意識のうちに芯を持てていたのだ。

ある日のホームルーム中。担任の先生が言った。

「◯◯小だった人たちはこのホームルームが終わったら一度集まってください。」

私が通っていた小学校名だった。
同窓会的な集まりを開くには早すぎるし、なにかあったのだろうかと少々不安の念が湧いていた。

ホームルームが終わり、クラスの中の同じ小学校だった生徒が数人集まった。

「えー、急に時間を取って悪いな。◯◯小出身でもしかしたら知り合いだった人もいるかもしれないけれど…」

 このようなときの私の最悪な予感は当たる。

「かたのたくみくんという生徒が亡くなった。」

“たくみ…?”

まさかとは思ったけれど、予想以上のまさかだった。
それは匠くんだったのだ。

下の名前でしか読んだことが無かったために苗字は忘れかけていたが、一緒に勉強をしていた時間にふと見た名札に“かたのたくみ”と書かれていたことを思い出した。テストの解答用紙にもそう書かれていた。

彼は確か中学受験をして進学したため、別の中学校へ入学したという噂は知っていたがどこの中学校へ通っていたのかは知らなかった。
やっと新しい日常に慣れてきたというころに、衝撃的な一報。このようなときに限って望まない方の出来事が起こる。人の正常性バイアスという心理は非常に危険だ。私はどうしてもその事実を信じたくは無かった。

「亡くなった原因は家のお風呂での溺死らしい。
みんなが普通に生活をする中でもこのような不幸は起きる。今の匠くんが通っている中学の生徒達と同じ小学校だった生徒達に向けた葬式の案内をもらっているから、行ける人はできるだけ日程を合わせて行ってやって欲しい。」

私は迷い無く行こうと決めた。


 式当日、暑い日だったか寒い日だったかは思い出せないが一生忘れられない日だったということは今でも覚えている。
斎場には私と、一緒に来た友達数人の他に同じ小学校だった子が数十人、そして彼が通っていた私立中学校の生徒達が大体一クラス程参列していた。
それから私達と向き合って列席する彼のご遺族。
そして、正面の遺影には中学校入学時に撮影したと思われる制服姿の匠くんの遺影。

「まだ撮影して間も無いだろうな」

彼の死を初めて実感し、この出来事を理解することができた。受け入れるには時間がかかったけれども。ただ、今でも完全に受け入れられているかと訊かれるとそうでは無いかもしれない。
全てを受け入れてしまってはこの日の感情を忘れてしまうかもしれないという恐怖心があるからだ。
百パーセントを受け入れられなくても良い、受け入れないままのものもあっても良い。

 全ての物事を受け入れることができる、という人がいたとすれば非常に凄まじいことである。しかしそのような言葉は表面的なものであって、真実はその本人にしか理解することができない。私達にはそれぞれの内側に箱を持っていて、その箱の中身に何が入っているかは自分にしか分からない。
だからこそ私は他人への先入観は持たずに接したいと考えている。
捻くれていたとしても、できるだけ素直な姿勢で人と向き合いたい。それが実際にできているかどうかは私が周囲から受け取るもので分かるだろうから、それも素のまま受け入れたい。

 こう考えさせてくれるのも、多分彼の存在があったからだ。
箱が大きかった彼自身も、良いものばかりを詰めている訳では無い。受け入れる箱が大きれば大きいほど反対に、攻撃的なものも多く受け取る。
願わくば、彼のその箱の中の“良いもの”として私との時間が存在してくれていれば、この上無い幸せだ。
そしてこれからは私がこの記憶を忘れずに守っておくために、自分自身の箱の中に閉まっておきたい。

 小さな幸せも大きな悲しみも全て日々のこと。
何も無い並行な五線譜の上に音符が重なることで出来上がる音楽のように、地に足つけて日々を生きていれば前にも後ろにも彩りは付けることができる。
ただ一人では限界がある。
人は大体平凡である。生身の人間が感情という目には見えないものを持つには負荷がかかりすぎるのだ。だから、他人がいる。
分けるために自分以外の人がいて、自分が苦手なことを得意とする人もいる。また、自分が得意とすることを苦手とする人もいる。
バランスの悪いままで良い。補合える存在は必ずいるのだから。
いつまでも一人でいなくて良い。

 ここまで読んでくれたあなたの箱の中に、この物語があなたの小さな幸せとして新しく加わることができれば、私にとってこの上無い大きな幸せです。

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