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【※ネタバレ注意】映画「違国日記」は1人で生きようと思っている人に見て欲しい作品


 つい先日、私は映画「違国日記」を観に行った。
原作は読んでいなかったが、公式サイトのあらすじを読んで純粋に面白そうだなと感じたので映画館へ向かった。

 その日は平日で、館内は比較的人が少なくスクリーンのド真ん中の席が空いていた。迷わずチケットを購入。15:40上映の回。

 これは個人的なコツであるが、映画館のゴールデンシートというものは“スクリーンの横の長さ分離れた真ん中の席”だと考えている。

どういうことかと言うと、

1.まずスクリーンの大きさというものは部屋毎に異なるため、チケット購入時の座席選択で表示されている上部のスクリーンの図を縦にする

2.その長さ分、後列へ

3.そして交わった列の中央により近い席を選ぶ

このように席を決めるということ。大体、視覚的にスクリーン全体を視野に入れて少し周りの黒い枠が入るかな?位がベスト。
その場所こそが、長時間映像を見続けても疲れることなく、より物語に没入することができるゴールデンシートなのだ。
もちろん、人それぞれ席の好みがあるかもしれないが、それほどこだわりが無いよ~という方はぜひこの方法で1度試して見て欲しい。
失敗は無い。と思う。

 だいぶ話が逸れてしまったが、もとい。

 映画「違国日記」は、ヤマシタトモコさん原作の漫画を基に作られた作品であり、両親を交通事故で亡くした15歳の朝(早瀬憩)が葬式の場で槙生(新垣結衣)に勢いで引き取られることになったのち、ほぼ初対面である2人の少しぎこちない同居生活が繰り広げられる、というストーリー。
親戚達が集まる中、誰も朝を引き取ろうとせず心ない言葉だけが飛び交う状況で槙生が放った一言、

「あなたを愛せるかどうかはわからない。でもわたしは決してあなたを踏みにじらない」

この言葉が物語の始まりだった。

 私が新垣結衣さんの出演される作品を観るのは2023年10月に公開された映画『正欲』ぶりであった。
この作品を見たからだろうか、私の中の「ガッキー」に対する印象が覆され、“新垣結衣”という俳優の演技を見たくてたまらなくなっていた。それが『違国日記』を観ようと思った1番の理由と言っても過言では無い。

 今回の“小説家”という役柄も相まって、新垣さんのクールさと包容力という魅力が槙生というキャラクターを通して遺憾無く発揮されていた。
出会った当時、まだ中学生だった朝が受け入れ難い現実を抱えながらも等身大の自分を曝け出すことができていたのは間違いなく槙生の揺るがない信念があったから。
いや、信念というよりも瞬間的な決断力と言うべきか。それもまた信念の1つだろうか。
その“槙生”という人物を人間たらしめている要素はいくつか存在していたのだが、そのうちの“だらしなさ”はもしかすると普段の新垣さんと通ずる点があるのかもしれないと感じるほどのリアルな“オフ感”だった。

 片付けが苦手・自炊をしているか周りから心配されるなど、生活が少々得意では無いという性格は小説家のイメージと結びつきやすい。
それから、自分の小説が売れたときに家を購入したり勢いで朝を引き取ったりと重大な決断を下すことができるギャンブラー的要素も、表現者らしい。
私の勝手なイメージでもあるけれども。

 一見風変わりな“大人”である槙生だったけれども、朝へ向ける表情はとても温かいものだった。
両親を亡くした子に対し、父性と母性、両方を兼ね備えているかのようで、“ダメな大人”であっても“ダメな人間”では無かった。

作品の中で、朝が

「そんな大人初めて見た」
「大人ってそういうものなのかなって」

のように(朧げな記憶のためニュアンスは間違えているかもしれないが)子供ながらに持ち合わせている“大人”への偏見をよく口に出していた印象がある。
「大人と子供」という成長のグラデーションにおいて、自分自身が今どの立場に立っているのか。年齢的に分類できることはあるかもしれないが、明確な境界線というものは存在しない。
個人的には、人それぞれスピードは違えど子供が成長しただけのことが「大人」といえるのではないかとも考えた。

 作中の、中学〜高校の朝から感じられる不安定さは、必ずしも彼女だけの悲しみではなく、現実においてもこのように揺らぎながら日々を生きている学生は多いだろうなと感じた。
この人物を演じた早瀬憩さんもまた、記憶に残る俳優だった。

 役者として、彼女自身も“始まり”の段階だと思うし、観る側からしてこれからが凄く楽しみだと思えるフレッシュさと同時に、役柄とは相反した頼もしさも感じられた。
新垣さんの包容力に包み込まれるだけでは無く、素直に受け取る力。それはあたかも血の繋がった親子のようであり、子が親に向ける無条件の愛のよう。
こんなにも繊細な表現を17歳にしてやってのけるのは本当に肝が据わっている。
朝というキャラクターの素直な部分もまた、早瀬さんと通ずるものがあるのかもしれない。

 そして、この作品を鑑賞し終わって残ったものは、平凡な多幸感。多幸であるのに平凡と言うには贅沢すぎる感情だが、これに尽きる。
「1人で生きる」ことになっていたかもしれない朝と槙生という2人の人間が、完全に溶け合うことなく暮らしを続ける。
これは、思いやりというものは“距離”で証明されることは無いという証明であり、1人でいる時間はあっても1人で生きていく時間というものは無いという証明になる。
不器用ながらもダメな人間では決して無い、1人で生きようと思っている人には一旦この作品に身を委ねてみて欲しい、そう感じた唯一無二の映画だった。

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