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仲良く喧嘩しよう

※動物における少々過度な文章表現があります。

私はトムとジェリーが好きだ。

文頭からあたかもどストレートな告白のようになってしまったが、この場合は“楽しんで見ることができるアニメ”としての軽快な“好き”である。

 トムとジェリーとは、ご存知の方もいるかもしれないが、因縁の相手であるネコ(トム)とネズミ(ジェリー)のドタバタ劇を描いたアニメーションだ。
セリフがほとんど無く、笑いや叫びなどの言葉にならない音声やキャラクターの表情で物語が進行していく作品であり、現実世界での人間にとっては大惨事となる過度な描写(爆発や感電など)があるが血を流す描写は描かれていないため、コメディとして世界中の多くの人に親しまれている。

私はふと、毎日喧嘩をしている彼ら(トムとジェリー)から良好な(?)人間関係が学べるのではないだろうか、と考えた。

どういうことかと言うと、語弊があるかもしれないが人間関係において
「いじめは必要無いけれど“喧嘩”はあってもいい」ということ。

両方とも無くて済むならそりゃあ無いほうが良いと思うし、そのほうが穏やかな日常が過ごせるはずだとも思う。
しかし、これらはこの世にたくさんの人々が生きている以上、ゼロにはならない。
教養的にもそれ以外の意味でも、全員が平等に学べる訳では無いからだ。
“いじめ”は加害者・被害者ともに、将来的に得することは無いなと個人的に感じているのだが“喧嘩”においては「喧嘩をするほど仲が良い」ということわざも存在するほど、プラスとして捉えられる側面もある。

このような点で、トムとジェリーという作品は人間関係における大きなヒントになり得るのではないかと考えた。

 忖度も遠慮も無しに対話できる仲というものは非常に貴重な存在である。しかし、自分の意見を丸裸にして話すことは本当に恐い。
恐いことだからこそ、私は堂々と自分の意見を主張できる人は格好が良く、強いなと感じる。
私はどちらかというと、対面する相手に対して表情や反応を伺うタイプのため、元々は自分の意見を言うことは得意では無かった。
「この言動で相手を傷付けてしまわないだろうか」などの恐れを持っていたのだが、それもまた自分自身を護るためだということを知ってからは良い意味で人間関係における許容範囲が広まった。


 少し話が逸れてしまったが、トムとジェリーは現実的には、ネコvsネズミといったいわば敵対関係にある生き物であるが、アニメ内ではお互いが遠慮もクソも無くやり合いを繰り広げている。
ジェリーはすばしっこくて賢いネズミであり、ネコであるトムにさまざまなイタズラを仕掛けるが実際にはネコという生き物は肉食動物で、獲物として最適なのがネズミなのだ。

この本能に基づくと、いつもネズミのジェリーにしてやられている印象があるネコのトムは、実はその気になればジェリーをすぐに食べてしまうことができる。
そのような視点でこのアニメを観ると、より理性的であるのは本当はトムであり、ジェリーと遊ぶことが面白いから食べずにいる、といった解釈もできるのではないだろうか。

ここに、私は“友情”という意味合いでの情のようなものを感じた。

 自分の立場だけでは生きていくことのできない人間関係において、本当に大事なのはいかに自分を護ることなくその相手と接することができるかということ。

社会面では、もちろん相手の立場や関係性などによって配慮しなければならない面も出てくるだろう。
しかし、自分にとって本当の意味での良好な人間関係とは、背伸びや忖度無く関わることができる間柄のこと。ただし、そこに礼儀が欠けているということではない。
良い距離感を保ちつつ遠慮はしない、それこそが“友達”という関係において大事なのではないだろうか。

また、個人的な見解だが主観的に“人間関係が良好だな”と思い込んでいるときは、もしかすると“周囲が大人だから”ということもあるかもしれない。
それに気付くことができれば、より相手にもたれかかることなく自分で立てるようになる。
その相手が家族や恋人、友達、職場の人など関係無く。

 仲良しな2匹の喧嘩から人間関係を学びつつ、私自身も本当の意味での「仲良し」といえる関係を常に大切にしていたい。(爆発は無しで)

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