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束の間の光

朝の光は台所の床に反射して、家じゅうに差し込んでくる。電子レンジの表面も、床に転がったもらいものの野菜の入ったビニール袋や、壁に立てかけてある描きかけの油絵にも、等しく光が当たって、皆、目を覚ます。私もふとんのやわらかな弾力の中から抜け出て、部屋に立って、つかのま朝の自分を捕まえる。

窓の外が今日も天気が良いと告げる。まだ6時半。日差しはこれから一気に強くなっていく。

玄関に置いてある水着とタオルのセットをもって、玄関を出る。目の前にはわたしの軽自動車があって、藍色のくたびれたドアをあけて水着を放り入れる。いくぶんおぼつかない手で、車を動かし、5分で海に出る。

海には限りなく果てしなく、光が注いで、すべての波がキラキラとうねる。わたしは、毎日車を止めるたびにその景色に感動して、朝一番の自分の海、わたしだけの!と走ってしまいたくなる。空はまだ日差しが届かない場所もあって、すうすうと風通しがいい。いつも使っている手近な岩場で水着を着ると、まちきれずに水の中へ身体を滑らせる。

お目当ての岩のところには、さざえがいっぱいいて、4つくらいならいいだろうと私は思って毎朝捕りに行く。ごめんなさい。水の抵抗は、むしろ私とたわむれる気の合う知り合いのようで、白い波紋、水中の海藻や岩のあらゆる色を反映してくるくると様子をかえる水のスクリーンは近づいて遠のいて。水をはねのけると濃い水色の空が、海に入れないからうらやましそうに私を見下ろしている。ああ!空と海!風!これでもう私は100%幸福なのだ。ここには全部あるのに。

海から家に帰ると、さざえご飯の用意をして、私は職場へでかける。

手も足も目も肌もまだ忘れていない感覚。どれもがみんな距離の遠いものばかりになってしまったけど、まだ空も海も木も道も星も、私の事を覚えていてくれている。たまに、都会の空や季節の変わり目の、植物の強い息吹を感じるときに、あのころの彼らが身近に来ていることがわかる。風が頬をなでる、手足がふっと軽くなり走り出せる、と思う。

あの懐かしい部屋。眠りから覚めた時に、自分の軽く握った手を下から支えている畳の黄色い目のこと。そしてぼんやりとその背景にはアルミのラックの足があって、おさまりきらない本が適当に立てかけてある。たくさんの表紙の色。窓は四角に青い空を切り抜く。

たくさんのことに感動していた私は、柵の外に出て暮らしていた。



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