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雨と雷。雷に初めて恐怖を覚えた中学時代。

 こんばんは。梅雨の時期になりましたね(沖縄の方はもう明けてますが)。

 私は雨が好きです。災害レベルまで降られては困りますが、降っている雨を眺めたり、音を聞いたりするのがとても好き。

 でも私の部屋の窓は分厚いくもりガラスなので、窓を閉めた状態では雨が降っている景色は見えず、音もほとんど聞こえません。

 この前、雨が降っている時、どんなもんかな、と少し窓を開けてみたら、横殴り、とはいかないまでも、斜めに雨が降っていました。
 涼やかな風も入ってきて、音も聞こえるし、と開けたまま10分ほどパソコン作業。
 ふと、窓辺に目をやると、風に吹かれて入ってきた雨が……当たり前ですね。
 雨の音、心地よい風、名残惜しかったですが、窓を閉めました。


 雨とともに、時々やってくるのが雷。なぜだか雷も昔から好きでした。子どもの頃から、雷が鳴ると、家で一番見やすい兄の部屋に駆け込んで、窓から眺めていました。

 雷が鳴ると怖い、という人と、雷が鳴るとワクワクする、という人がいると思います。
 私は間違いなく後者で、“平常時ではない”スリルのようなものを安全な家の中から楽しんでいました。

 しかし中学生の頃、今までに経験したことのない雷を目の当たりにしました。
 これは今でもハッキリと覚えています。理由は、その雷のすごさと、私自身がノートにリアルタイムで書き綴っていたから。
 そのノートがまだ手元にあったので、転記してみます。

 私はまさかここまで雷がすごいものだとは思わなかった。
 その光はまさに昼間のごとく街を映し出してみせたのだ。
 そしてそれは連続的に続き、繰り返し繰り返し、人にその存在を示すのだ。
 その鋭い閃光は、一瞬のことであるのだけど、その光の強さゆえ、その閃光があった所を明確に記憶させるのだ。
 だがたまに、一瞬でないものがある。それは天より地へとまっしぐらに舞い降りる龍のごとく、その姿は雄大で、人間に数秒間見せつけるのだ。ただしそこに美しさはなく、ただその音と共に、恐怖を人に押し示したのだ。

 雷のお供であるその轟音は、私たちにタイムリミットを教えているようである。
 閃光が走ってからその音が鳴るまでの時間で、大体の位置を知ることができるが、その間隔が狭まっていくと、私たちの心は恐怖でいっぱいとなるのだ。
 さぁもうすぐお前たちの頭上に、そう言っているように聞こえてならない。

8/20

 一部ひらがなを漢字に直しましたが、ほぼ原文ママです。
(この頃のほうが文才あったんじゃないかと我ながら思います……。)

 この時、一緒に雨が降っていたのか、今はもう思い出せません。とにかくその雷の印象が強く、どのあたりをどのように稲妻が走ったか、それは映像で浮かび上がるほどなのですが。

 言ってしまえば、それまでに見ていた雷は遊園地のジェットコースターのようなもの。安全を保証された上で、仮初のスリルを味わっていたような。
 でもその時の雷は別格、というより別次元でした。決まったレールもない、安全バーもない、本物のリアルな恐怖。

 この恐怖は、自転車を走らせている最中に鳴った雷より肌に来るものがありました。
 数が多い、間隔が狭い、光が強い、音が大きい……。本当に嵐のような雷でした。

 そんな雷を20数年生きていれば、もう2度、3度、経験してきました。
 子どものあの頃のように怯えることはもうありませんが、雷鳴を聞く度、閃光を見る度、雷を初めて恐ろしいと思ったあの時のことを思い出します。

 こんなハッキリと「怖い」と感じた雷ですが、やっぱり今でも好きだったり。空をかける稲妻を、壮大な自然現象を、今でも子どものように窓辺で眺めていたりします。


「雷が鳴ると梅雨が明ける」のだそうです。
 私の住む関東は梅雨に入ったばかり。雷が鳴るのはまだ当分先かもしれません。
 それまでは、時々ちょっぴり窓を開けて、冷えた空気と、様々な表情を感じさせる音と、空から降り落ちる雫とを楽しみたいと思います。

 いつか鳴るかもしれない雷は、どんな姿でやってくるのか、想像しながら、少し恐れながら。

 それではまた!

円井零

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