”勝つ”ことより大事なことなどない

成功とは勝利である

あなたは勝つことと負けること、どちらがお好みか?

この質問に対し、負けること、とは正直答えにくい。負けたくて負ける人は、この世の中にいない。敗北とは勝利を希求する者同士が衝突することで生まれるもので、決して敗北だけが独り歩きすることはない。敗北とは、勝利に付随するものなのである。

或いは、負けようとして負けたとしよう。しかし、負けようとしたことには必然的に意義が伴うはずである。負けた方が良い、と判断を下した時点でその人の勝利条件とは、負けることとなる。故に、負けるが勝ち、といいう奇妙な状況も起こりうるのである。

要は、勝利することとは一概に面前の争い一つ一つに勝つことというよりは、個人が自己の利益であると判断した事柄を達成することであるといえよう。

これらを踏まえればやはり、負けたくて負けるものなど世の中に存在しない。皆自己の利益のため、延いては目的の達成、”成功”のために戦い、勝とうとするのである。

勝利主義

何故、人は成功を追い求めるのだろうか。それは偏に、自己を肯定をしたいから、自分の信念を貫きたいからだろうと思う。

僕がこの文章を書こうと思いいたったのにはいくつか訳があるが、そのわけの中に、昔から異常だと言われ続けてきた所以というものがある。というのは、僕はまだ高校生ではあるが、既に社会において何度も、競争を経験してきている。テストの得点、学業成績。体育の時間や習い事、クラブでのスポーツ体験。子供でさえこれだけ戦わせられているのだから、社会人とはいかにも競争するためのものであろう。

どうも社会とは、人と人を競わせ比べたがるものであるらしいとは、誰しも気づかされてしまうことだと思う。その外側に立とうにも、資本主義の原理の上に置かれている以上それは容易でない。生きたいならば争え、などとは余程戦争主義であるとは、口が裂けても言えない。

さて、話がそれた。僕が周りから異常と言われてきた、というのはこの競争の世の中において、僕は誰よりも勝利というものを渇望していたからである。たとえどれほど専門外な戦いでも、勝とう勝とうと虎の目をかりていきてきた。運動神経は悪く、スポーツは得意ではない。しかし、一たび試合が始まれば、正直味方にも、相手にも、勝ちたいという思いで負けたことはないと思う。たとえ自分が出場していなくとも、だ。
或いは、勉強。頭が悪くて辛抱の強くない人間であったから、決して良い成績は収めていない。しかし、僕は悔しがった思いでいえば並ではないと思う。好きなことも嫌いなことも無関係に、ただ勝負の場において、負けるということが死ぬほど嫌いだ。負けるかもしれない、と考えるだけで悪寒が走り、恐怖を感じる。

僕がもともとそういう人間だったのかも知れない。生まれた時から、負けることが嫌いという人間もいるだろう。しかし、僕が分析するに、負けたくないと思うことには明確な理由が存在する。それは、あさましい自尊心だ。

負けることは、僕にとって単純にダサいことで、勝つことはカッコいいことなのである。そしておそらく、これは世の多くの人にも当てはまると思う。ただ、世の中誰もが勝者にはなれない。故に価値観が多様化し、勝利条件は人それぞれになったのだろう。自分探しも自己啓発も、原点は社会的意義と社会的動物の間にできた価値のためである。

勝手に作られた舞台で戦わされて、そこで勝つことに拘ることがばからしく思える人もいるだろう。僕もいつしか、そう思うようになった。もしかすると、僕の場合は勝てない言い訳だったかもしれない。いや、正直そうだと思う。でも、僕は勝つことを諦めていない。成功したくない人間はいない。大金持ちになって好きなことばかりする日々に憧れるのは、人が人である以上仕方ない。

この、成功主義とも形容できそうな現代社会の原理は人の欲望と自尊心を上手く操った実に効率のいい考えだ。僕の場合はその波に流されたくないために、そしてその海の中では否応にも負けてしまうのが分かってしまったために、自分探しに逃げたのである。

E-Sportsの世界

そうして自己否定の末僕が到達したのは、eスポーツの世界だった。純粋に勝利を求めて戦う人の姿に打たれない戦闘狂はいない。実際、僕はゲームが好きだった。それも、バリバリの対戦ゲームだ。皆とモンスターを狩りに出かけるよりステージの外へ友達を吹っ飛ばす方が好きだったし、一緒にステージをクリアするより車で競争していた。

ゲームの世界は僕にとって一つの社会で、そこで勝つことは一種の存在意義だった。そんな、謂わば遊びであるゲーム。そこから、遊びという意思を排除した純粋な競争の世界。一目で心奪われた。世界一強くなりたい、という思いが芽生えた。

しかし、その世界で生きたいと思い、知れば知るほどに、僕の中に僅かながら疑念が生まれたのだと思う。本当に、勝つことこそが全てで、正しくて、負けたらダサいのだろうか、と。

実際、僕のこの勝ちへの執着が異常だと評価されてきたように、案外世の人々は勝つことだけがいいことだと思ってはいないのかな、と感じた。プロの世界で戦う人々は勿論、世界で一番強くなりたいと思っているはずだ。そのために、一握りの選考に選ばれようと努力をして、無論、選ばれてからも努力をしている。しかし、たった一人、たった一チームしか、その目標は達成できない。なら、敗者に価値がないのだろうか。少なくとも今までの僕はそう評価したのだろうけど、日本を代表し、世界の舞台で戦おうとする選手たちを応援していた時に彼らが負けても、僕は彼らをダサいなどと一蹴は出来ない。選手のことを、彼らを支える人々の存在を、知れば知るほどにそんな不遜なことは考えられなくなった。

ただ、落ち着くと。例えば、観戦者や応援者としてではなく、プレイヤーとして考えると、どうにも勝てること以上に大事なことなど内容にも考えられてしまう。ので、いっそのことプロゲーマーにとって勝つこと以上に大事なことがあり得るのか、考えてみたいと思う。当然これは、プロゲーマーという枠組みにのみ囚われるべきでないと思う。偶々僕がeスポーツが好きだったから一例にあげているのだと思ってほしい。

プロゲーマーの存在意義

プロゲーマーなんていう役職が生まれたのはいったい何故なのだろうか。そこに需要が無ければ、生まれるはずはない。ということは、彼らがいることで誰かが得をする。そう考えるのがセオリーだろう。しかし、そんな固く考えるまでもなく、その需要は解りきっているだろう。

彼らがその舞台で戦うこと自体が需要を生み出し続けるのだ。勝負の世界に階級があるとするならば、彼らは全員がピラミッドの頂点だ。頂点の中で頂点を決める戦い。その世界に生きる者、その世界で勝ちたいと思い強くなりたいと思う者にとってこれ以上ない需要である。どんな界隈であったってそうだ。だから人は世界一の資産家や年収1000万などという見出しに引っ張られてしまうのだ。

彼らは戦うことで需要を生み出すために戦っている。しかし、それはプロゲーマーの存在意義であっても、プロゲーマーが戦う理由とは異なるはずだ。

まさか彼らが需要があるから、金が手に入るからなどという理由で戦い続けるとは考えにくい。後者は若干あり得るかも知れないが、絶対に言えるのは、決してそれらとは違う意味があるはずだということ。プロになりたくてゲームを始める人はいない。強さを求めた先に、プロの舞台が待っているはずなのだ。少なくとも僕は、eスポーツというものにはそうであってほしい。

ならば、プロゲーマーの存在意義などやはり、明白だと思う。結局、勝つことだ。たとえ並んだとしても、決してそれ以上のものなどあり得ない。勝って、勝って、そして勝つ。勝負の世界とはそういうものなのだと思っている。

この世に勝つこと以上に価値のあるものはあるだろうか。最低限生きる権利の保障された世界だとしたら、価値とは、生きれる幸せなんかじゃない。最後に勝つことだと、やはり僕は結論を出してしまう。それがゆがんでいると思われるなら、甘んじて受け入れる。しかし、恐らくは譲らない。それが、僕のような底辺なりの、譲れないものだと思う。

観戦者の存在意義

とはいえ、僕もそれが全てだとはさすがに思わない。どちらかというなら、二番、三番の意義も考えるべきだと思うし、大切だと思う。

だから、先ほどとは違う視点、観戦者の側からのeスポーツへの価値を考えて、本稿をしめたいと思う。

最初に理解しておいた方が良いと思うのはやはり、観戦者の中には勝利をプロゲーマーの至上命題とする者が存在することだろう。
プロの世界で負けた選手に対して、雑魚、辞めろ、などという誹謗中傷があることは事実だ。逆に、海外の圧倒的な選手に対してのファンの付き様にも目を瞠るものはある。

産業として見れば何の価値もないかも知れない餓鬼も、日本以外の国を応援することも、根本は勝利至上な価値観ゆえなので否定はできない。というか、海外選手を応援することには何一つ悪いことはない。論じ方の問題だと思うので反省している。

要は、観戦者が一番知りたいこと、求めているものも、やはり勝利なのではないかということだ。eスポーツ産業とは謂わば、そこから派生した人の感情に付け込むものだ。

一部の過激なファン以外は、勿論強い選手が好きかも知れないにしても、もはや観戦者はそこだけを見てはいない。それこそ、選手の戦場以外での素の顔、或いは戦い方のスタイルなどを見ている。だから、たとえ負けが続いたとしても見放されたりはしない。そういう意味では勝つこと以上の価値が、そこには存在するのかもしれない。実際、勝ちまくっていた選手が手痛い敗北を喫してしまった時、負けの続いていた選手がようやく勝った時。僕たちは彼らの心の内を知りたくなる。ツイートが見たくなってしまう。

そんなファンがいるからeスポーツは成り立っているのだろう。そして、そんなファンがいる限りeスポーツは決して衰退などしないだろう。
そして、前述した通り、eスポーツとは一例に過ぎないと思っている。何も社会に石を投げたいわけではないが、そういう価値観が生まれていることも主張できればと思う。

勝つことが全てではない。でも、勝つことは誰もが求めるもので、根本的に必要なものだ。努力の姿勢も、背景も、選手の姿勢も、気持ちも、楽しみも、喜びも、勝利というものから、それを前提とした世界の中だから生まれる、ただのファクターに過ぎないのだと僕は考える。

だって、僕も、勝ちたいから。死ぬほど。

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