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ナンバリングだらけになったnoteに思うこと

2020年から本格的にnoteを活用し始めたのだけれど、記事を書くうえで「連続した」「テーマ性のあるものを」「定期的に」というルールを決めていた。結果、私のnoteはナンバリングだらけになっていった。

などなど…。

noteを始める前に私はFacebookを使って毎日文章をアップし続けるという試みを3年間続けていて、「毎日」というルールの上で文章を書いている自分は想像ができた。だけどそういえば、「連続した」「テーマ性のあるもの」というルールで何かに取り組んだことはなかったし、続けた先にあるものも、それに取り組んでいる自分もさっぱり想像できなかった。

「毎日」も「連続した」も「テーマ性のあるもの」も、いずれもルールという制限だ。創造性という目に見えずどこまでも広がっていくものを、輪郭の決まった器に盛り付けていくことだ。何にも縛られないことが自由の定義だと思っていた10年前の自分の目には、それは恐ろしく不自由なこととして映ったと思う。まるで自分の中にある無限の可能性を搾取されるような気持ちになっていただろう。

けれど今は、制約の中で体現される自由というものに興味を持っている。自分で制限や制約を選ぶことができて、その中に広がっていく可能性を発見していくことだって自由だと思うようになった。この自由にはさらに良いところがある。それは、「人と共有できる」ということ。これまで私の中の自由は、内側にある曖昧模糊としたもので、言葉にはできないし、誰とも共有できないと思っていた。そういう孤独こそが新たな創造性の種だと思っていた。けれど、自由ってきっとそれだけじゃないんだろうな、とうっすら感じている今日この頃。さて、2020年からひたすら制約を課してきて今、メキメキと芽生えているものがある。


それは雑記を書きたい!という気持ち。

特に何のテーマも決めず、季節柄も考えず、ただただ思っていたことを徒然なるままに書きたい。散文といってもいいのかもしれない。それは過去に3年間自分がFacebookでやってきたことでもあるのだけれど、自ら選んだ制約を経験した今は、書きながらどんな気持ちになるんだろう?とちょっとワクワクしている。以前の自分はその場その場での思いつきにいつでも振られていた(時には振り回されていた)けれど、今はどうなんだろう?

二十四節気通信がちょっと落ち着いてきたので、今年はちょっとその場その場での思いつきや即興性に軸足を戻していきたいなと感じています。

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