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Vol.39 娘に女を感じる瞬間がある


bonjour!🇫🇷 毎週金曜日更新のフランス滞在記をお届けします。

3歳を過ぎたあたりでしょうか。
娘のふとした仕草の中に時折「女」を感じることが出てきたのです。
普段は「子供」「娘」として彼女のことを見ているけれど、何気ないふとした仕草や目つきの中に時おり「女」を感じることがあって、はっとさせられる。

ママのまね。

ママとおんなじがいい。

ママになりたい。

私がピアスをつけているのを見るとおんなじように「私も」と小さな耳たぶにシールを貼る。
私がお化粧をしていると「私も」と小さな頰に絵の具の筆でスリスリとお化粧をする真似ごとをする。

女の子って、かわいいなぁ。
と思った。

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けれど、真剣にママのまねをしている彼女がときどき見せる表情や横顔に「女」を感じてはっとさせられることがある。

そんな時、目の間のこの人は子供で私はその保護者、という立場はたちまち薄れ、目の前のこの人は一人の人間、一人の女性として私と一緒にいるという意識状態になる。けれど同時に、一抹の寂しさがふっと芽生えて、先ほどまでの一対一の女同志の関係をいつもの親と子という関係に戻してしまう。

そんな時、ちょっとしたモヤモヤを覚えたりもする。
彼女を一人の女性として認めていたいという思いと、子供としてそれをまるっと包んでしまう思い。その一人の人として認めてあげたいという思いは、突き放すことと紙一重だし、包みたいという思いは飲み込むことと紙一重で、親でいるということは本当に微妙な立ち位置なんだなと思わずにはいられなかった。

だけどそんな神妙な顔つきをした私のことなんてお構い無しに、娘はママのまね、ママのまね、「みてみて」と駆け寄ってくる。

ママのお化粧のまね、と彼女の手に持った鏡を覗き込むと、ここに映っている顔って実は私自身なのかもしれないなと思った。小さな子供は一番近い存在を通して世界を認識する。そして、その人の真似をする中で世界と自分なりに関わる方法を見つけていく存在だから。

ということは。

時折、娘にふと感じる「女」って、私自身の「女」なのだ。

そう気付いた時、先ほどの一抹の寂しさはもうやって来ることはなく、目の間のこの人は子供として、一人の人間として、女性としておんなじように存在していた。

ママの真似。
女の子になってきた。

(当時書いたFacebook投稿より)



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