no.10 ようやくちょっとずつ、自分への慈愛を思い出してきました|ゆるデジタル・デトックスはじめてます
ゆるデジタル・デトックスを始めてから2ヶ月が経とうとしていて、自分の体の欲するものを粛々と揃えてあげる日々。
お昼過ぎにはデジタル端末は充電器に寝かせて、アイデアを整理し、本を読みながら眠りにつく、という2ヶ月前には漠然と描いていた夢のような生活がごくごく当たり前になっています。当たり前になるってとても大切だ。どこまでもその先はあるから。
一番はじめに設定したSNSやネットサーフィンなどに費やし「スマホ(iPad)を〝使い過ぎていること〟で本当はやりたいのにできていないこと」はだいたいできるようになりました。
そこで、その他の〝やり過ぎていること〟に着手するようになってきています。
・飲み過ぎているコーヒー
・頼り過ぎているおやつの甘さ
・憂さを晴らすために適当に買ってしまう本
その背後にあるのは、没頭し過ぎて体のことなんて顧みず、体を破壊するまで突っ走り頑張り過ぎてしまう、いわば「日常に隠れている自分への暴力性」。
頭が発する「もっともっと!」に隷属させる形でもう休もうとしている体を叩き起こすようにカフェインを入れて、下がっているテンションを無理やりあげるためにスイーツを摂って血糖値を上げて、疲れた頭に「そんなのは気のせいだからね」と言わんばかりにインターネットや本の情報を詰め込む。
さぞ、お疲れのことでしょう。私の体。
先日、久々にがっつり風邪をひいて、強制終了された体を休ませながらそんな自分の体への暴力に気づいて、今までずいぶん無理なことをさせてきてごめんね、私の体と謝って、ちょっと泣いた。そうしたら背中に気持ちの良いものがすっと一本通って、癒えていく、という感覚に触れた。
頑張ることは美徳であるという言葉に寄りかかって、努力という名の見えにくい暴力を働いて、すっかり鈍感になってしまった「自分への慈愛」という感覚にちょっとずつちょっとずつ触れていく。
病気が軽快して、苦しさも喉元を過ぎてしまえば「よかった、普通の生活に戻れて」と安堵してしまいそうな自分がいるけれど、願わくば、病気を必要としなくても自分への慈愛を注げる自分でいたいもの。今まだちょっと喉の痛みが残るけれど、それすらも愛おしく、体が潤いを思い出しますようにと花に水をあげるように、熱すぎず、でも冷た過ぎないちょうど良い温度の水分を、ちょっとずつちょっとずつ喉に注いでみる。
今は、自分への慈愛とともに、正しい努力を身につけたい、という気持ち。
正しい努力というのは、きっと私や他のだれかを傷つけるものでもなく、むしろ自分も他人もエンパワーメントしてくれるものに違いないのだ。
昨日からPhase11。13時スタートの回が始まりました!
15時スタートがなかなか越えられない鬼門だったので、一山越えてサラサラ流れ出した感じ。
次はピンク色。赤ちゃんがひょこひょこ登場してます。毎度更新のたびにフォーマットをiPadでつくろうと思っているのですが、結局アナログな手書きスタイル。こっちの方が今の自分には良くって。
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