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【ネタバレ】重なりを探して――「トラペジウム」レビュー&感想

高山一実の長編小説を映像化した映画「トラペジウム」。4つの重星を指すタイトルが示す通り、これは重なりを探す物語である。


1.トラペジウムの意味


城州東高校1年生、東ゆう。近辺の他の高校を回る奇行に走る彼女には一つの目標があった。それは東西南北の4人の少女を集め、アイドルになること……!? 野望を胸に秘めた少女の青春は、果たしてどこにたどりつく?

アイドルグループ・乃木坂46の一期生だった高山一実の小説を CloverWorksがアニメ化した「トラペジウム」。天文の知識が「聖闘士星矢」止まりの私はこれが何を指すのか全く知らず、検索したところ突き当たったのは以下の解説であった。

トラペジウム(trapezium)
1 不等辺四辺形。どの二つの辺も平行でない四角形。
2 オリオン星雲の中にある四つの重星。非常に高温で強い紫外線を放ち、星雲全体を光らせる
小学館のデジタル大辞泉を出典としたコトバンク記事より

2つ目の「重星」という言葉も初めて目にしたので調べたところ、こちらは肉眼では1つに見えるが望遠鏡では2つ以上に分離して見える星を指すという。すなわち、重なって見える星だから重星なのだ。

以上の字義的な知識を念頭に見た時、本作において「重なり」は確かに重要である。主人公の少女・城州東高校1年生である東ゆうは自分を含めた東西南北の少女を集めてアイドルになるという奇妙な目標を持って活動しているが、自分以外の西南北にあたる少女に「一緒にアイドルをやろう」とは声をかけない。聖「南」テネリタス女学院の華鳥蘭子、「西」テクノ工業高等専門学校の大河くるみ、城州「北」高校の亀井美嘉にあくまで友達になりたいという体で接し、仲良しグループになった4人が自然とTVに露出する機会を作ることでアイドルデビューできるよう誘導していく……すなわち友達関係とアイドルを「重ねる」ことで目標を果たそうとしているのだから。

ゆうの計画は15.6歳の子供とは思えないほど綿密であり、実際そのプロデュースは成功を収める。ゲームの題材になって注目度の上昇した城のボランティアガイドを務めることで生まれたTV局との接点は番組コーナーへの出演そしてアイドルデビューへと繋がり、彼女達「東西南北(仮)」は見事芸能界入りを果たしたのだからその「重ね」方は大したものだ。だが、くるみを勧誘する過程で協力者となった少年・工藤真司が指摘するようにこのやり方には一つの疑問点がある。そう、アイドルになりたいならそもそもオーディションを受ければいい話であって、こんな回りくどい方やり方をする必要がない。ゆうのやり方は巧みだが、「重ねる」必要性自体がそもそもは無いはずなのだ。そして、彼女がそんな回り道をとる理由は実は極めて単純であった。……彼女は既に数々のオーディションを受け、その全てで落選していたのである。けれどそれでも、かわいい娘を見ればすぐ「アイドルになればいいのに」と思ってしまうほどのアイドル至上主義者であるゆうは夢を諦められなかった。皆を笑顔にできるアイドル以上のものなど存在しないと、彼女はそう信じていた。ゆうの正体とは物語開始時点で自分がアイドルと「重ならない」と烙印を押された失格者であり、東西南北(仮)はそれでも彼女が自分をアイドルと「重ねる」ための必死のあがきだったのである。

プライベートで仲が良く方位を分担し合う4人は確かに輝いていて、それはオリオン星雲全体を光らせるトラペジウムに等しい。だが最初に示したように、トラペジウムは肉眼では1つのようでも望遠鏡で見れば4つに分かれていて実際は「重なって」いない。ゆうの作った流れによって半ばなりゆきでアイドルになった他の3人は次第に現状に齟齬を感じ、もともと目立つのが好きでなかったくるみに至ってはほとんどその精神を破綻させかけてしまう。ゆうはそれでも「皆を笑顔にできるアイドル以上に素晴らしいことなんてない」と4人での活動を続けようとするが、身近な人を笑顔にできないで何がアイドルかと美嘉に問われれば、アイドルを至上のものとする自分に疑念を呈されればもはや返す言葉がなかった。

ゆうにとって、美嘉の言葉は二度目のアイドル失格宣告である。自分がアイドルに「重なって」いないことをゆうは改めて突きつけられた。いや、本当はもっと前から気付いていたのだ。東西南北とは言うけれど、SNSでの人気もファンレターもゆうは明らかに他の3人に劣っていた。お嬢様な蘭子のようなキャラクター性も、くるみのようなかわいさも、美嘉のような万人向けのルックスも自分にはない。あるのは目標のために彼女達を利用してその人生を大きく変えてしまった、薄汚い卑劣な性根だけ……だからゆうは、他の3人の退所にあたってどうするか問われても事務所との契約継続を選べない。そんな資格があるとはもはや思えない。

アイドル至上主義者のゆうにとって、アイドルと「重ならない」自分とはすなわちあらゆる善性を持たない星の屑である。世界と関わる資格のない、あらゆるものと「重ならない」存在である。だが、失意の日々を過ごす彼女はある日、ラジオで一つの曲がリクエストされるのを耳にした。他の3人との「絆を深める」ためのボランティアで知り合い、アイドルになってほしいと言われ1人でこっそり約束した少女・サチと思しき少女が、自分達の曲をリクエストしてくれたのを耳にした。

アイドルと全く重ならなかった自分。重なるところなど何も無いと思い知らされた自分。にも関わらず、サチの中で自分は今もアイドルと「重なって」いる。なぜ?……その不思議は、ゆうを再び立ち上がらせることとなった。

2.重なりを探して


アイドルと重ならない自分を諦めきれずもがき、成功を掴んだと思いきや結局は重ならない自分を更に突きつけられてしまったゆう。サチのリクエストを機にもう一度動き出したゆうは、美嘉のもとをもう一度訪ねる。ほとんど覚えていないが小学校時代は同級生でもあった彼女が知っている自分を、忘れてしまった自分を尋ねる。そして美嘉から聞かされたのは、当時いじめを受けていた自分にも等しく接してくれたゆうに美嘉が憧れていた事実であった。「ファン1号」だったという美嘉の言葉が示すように、その時ゆうはアイドルと「重なって」いたのだ。

1曲だけのデビュー曲「なりたいじぶん」も収録されたTV番組のサントラCDを買った帰り、かつて皆で練習した公園を訪れたゆうはそこで3人と再会する。ゆうは自分の仕打ちを謝罪し、3人ももうアイドルに戻るつもりはない。東西南北(仮)が再びステージに立つことはない。だがそれは必ずしも4人の別れを――4つの星が二度と重ならないことを意味しなかった。くるみにとってゆうは初めてできた大切な友達だったし、蘭子は一緒にいた時間を通して自分のやりたいことを見つけられたという。アイドルとしては失敗に終わったあの日々はしかし、それぞれに別の何かと「重なって」いたのだ。そして、わずかな間とはいえ重なる日々を過ごした3人はゆうの気持ちを彼女以上に知ってもいた。これだけ絶望してもなおアイドルになりたい気持ちを捨てられないことを、今の彼女が物語開始時点の彼女と「重なって」いることを知っていた。未練がましい? いいや違う、この諦めの悪さこそゆうの唯一にして絶対のアイドルらしさ……アイドルと「重なって」いる部分に他ならない。

振り返ってみよう。本作で私達がもっとも目が離せないと感じたのは誰か?……多くの人は「東ゆう」と答えるのではないだろうか。東西南北を集めてデビューするなどと企みを巡らせ、他人を利用する彼女がどうなるのか? いささかゴシップめいているかもしれないが、鑑賞しているさなかの私達の一番の関心はそこにあったはずだ。ゆうがどうなるのか目を離せない私達はつまり、彼女が銀幕で見せるステージにすっかり魅了されていたに等しい。蘭子のようなキャラクター性も、くるみのようなあざといほどのかわいさも、美嘉のようなルックスも持たない彼女にしかし、このように他の3人の及びもつかないアイドル性がある。

確かにゆうは友人の自分のために利用した卑怯者でありそれは一般的なアイドルとは「重ならない」かもしれないが、むしろそのかけ離れた姿ほどアイドルと「重なる」ものもなかった。だから彼女は自分の振る舞いを反省こそすれど、心を入れ替えて別人のようになったりはしない。8年後、夢を叶え別のアイドルグループの一員としてインタビューを受けるゆうは往時以上にしたたかに自分をプロデュースするようになっていた。

再び始めに戻ろう。トラペジウムとは、肉眼では1つのようだが望遠鏡では分離して見えるオリオン星雲の4重星を指す。すなわち「重なる」と「重ならない」は実のところ裏表に過ぎず、両方が合わさる・・・・・・・ところに真の「重なり」がある。東西南北(仮)が別々の道を歩んでいくように。本作が実際のアイドルが書いた架空の物語であるように。エピローグで再会した4人の姿が、「10年後の自分達へ」を想像して高校の文化祭で着たコスプレと絶妙な距離感を保っているように。かつての彼女達はもうおらず、けれど今の彼女達は間違いなくあの時の先に立っている。

「トラペジウム」は重なりを探す物語である。東ゆうが求め、そして見つけ出した「重なり」こそは重星の如く星雲を照らす輝きなのだ。

感想

以上、トラペジウムのレビュー&感想でした。原作未読、アニメ映画をやるなら見に行ってみようということで映画館へ足を運んだのですが、正直見終わって困りました。「これ、あえて言語化する必要ある?」と。映像を見て感じたもので十分じゃないか、と。しかし相互の方が題名が重要と言っているのを見かけたので、それを念頭に振り返ってみるとあれやこれやと言葉が浮かんできました。その方の感想はこれから読むのですが、その影に隠れるような重なり方をしてないといいな。レビューで書いたように裏表合わせての「重なる」ものだったらいいな……と思います。

さて、普段は「アニメとおどろう」というブログでアニメレビューを書いている私ですが(2024年春期はユーフォ3期、ブルアカ、ダンジョン飯の3本)、今回はnoteに記事を上げてみました。以前から関心はあった一方引っ越すのもどうかと考えていたのですが、「TVアニメはブログで、(アニメ)映画はnoteで」と書き分ける形から始めてみるのはどうだろう?と先日思い立ちまして。要するに「重なりつつ重ならない」やり方を思いついたわけで、その1本目が本作だったことはある種運命的だったように思います。見終わってしばらくしてから、いい映画を見た喜びがじんわり胸の中からあふれてきました。

既にブログで1本目の記事を上げている「大室家」「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」「コードギアス 奪還のロゼ」は引き続きブログでとなりますが、先に触れたように(アニメ)映画についてはこちらで書いていってみる予定です。5,6月はアニメ映画が大渋滞でレビューも遅れ気味になってしまうかと思いますが、よろしければお付き合いください。

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