「死の恐怖」との付き合い方(3)
あなたは、「死者の世界」というイメージというか概念をどう思いますか?
あるいは、そういう「世界」を感じたことはありますか?
いわゆる霊感の強い人とかは、多分そういう「世界」の存在を当たり前のことと思っていることでせう。
また、日本の伝統として盆暮の帰省とか、墓参りとか、そういった行動の底のところには、少なくとも「先祖の霊の世界」があるという前提が根付いているんじゃないかな。
我が大先輩にして大哲学者の三木清先生も、「死者の国はある」という方に賭けると仰っていることだし。
この場合、とても大きな問題は、果たして死者は「どういう者」として「死者の国」に存在しているのか?ということかな。
例えば認知症になった後に亡くなった人とかは、人生のどの時点の人格をもって死者の国で暮らしているのか?
もしも前回ちょっと触れたアリスのように自己を認識できないまま死んだとしたら?
ここは拙者が初めてこの本を読んだ時に、最も引っかかった箇所である。
三木大先輩は、郷里龍野での子供時代から敬虔なる仏教徒だったと、拙者は聞いておった。
仏教では、この世への執着を煩悩と捉え、それを捨て去ることこそ往生への王道だと説いている。
ね、矛盾するでしょ?
ということで、その遺稿『親鸞』を覗いてみると⋯⋯こんなふうに書かれていた。
親鸞の真骨頂は、「悪人正機説」だよね。
その「悪人」とは、ヤンチャとか半グレとか闇バイトとかのことじゃなくて、自分のことを善人だと思ってない人のこと、迷いや悩みを抱えた状態でなんとか生きてる人たち。
おお、身共たちのことではないかw
そうなのだ。
生きてる限り、善人として完成することはできないし、そもそも何が善だかも分かったもんじゃないのだ。
身共も、人間誰しも死の瞬間まではずっとペンディング状態だと思っている。
かく云う身共は仏教の専門家ではないし、特に信仰心があるわけでもないが、日本においてインド仏教がこんなにも変容した事実を実に面白く思っている。
(そういえば、かつてスリランカに住まいしていたころ、現地のインテリ・ジャーナリストと『スッタニパータ』についてお話ししていた時、このことを話すと膝を乗り出して質問攻めにあってちと困ったものであった。w)
信仰心も結構だが、何よりもまず生きた人間でありたいものだ。
死の恐怖を信仰によって誤魔化す⋯⋯いや失礼、解消するなんてのは、嘘っぽいというか、虫が良すぎるというか、金さえ供出すればなんとかなるというか、とにかくなんか鷺っぽくね?
宗教であれ哲学であれ思想であれ、なんであっても、「究極的な固定した真理なんてものはない」、ということを無視し過ぎているんじゃね?みたいな。
いろんな可能性、プロバビリティを想像し、自己を創造して(というと実存主義っぽく聞こえるかもだけど)変容を楽しんで行くこと。
それが生きているということだと、拙者は思う。
そして、その変容のプロセスは、あなたならあなた、拙者なら拙者という「唯一者」だけの、かけがえのない世界なのだ。
だからこそ、どんな他者とも繋がることができるのである。
そう、先に逝った人たちとも。。。
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