見出し画像

『チベット死者の書』と『ロミオ・エラー』

前回、『エーゲ海パラドックス』ということで、死っていうのは結局のところ情報に過ぎないんじゃないかっていうお話をしましたけど、あの場合のアエゲウス王というのは第三者ですよね。テセウス当人じゃない。

だけど、実は死に臨んだ本人も自分がほんとに死んだっていうことを知らない、分からないっていうケースがままあるらしい。
これは大昔から世界各地で言い伝えられていて、その典型的な例がチベットの『バルド・トドゥル』、俗に『チベット死者の書』と呼ばれている経典ですよね。

あれはずっと死に臨んだ人の耳元で語り聞かせるもので、四十九日にわたって迷わず成仏するまで導いていく内容になっている。
つまり、自分が死んだって言うことを納得しない、認めない魂っていうのを想定してるっていうか、イマジネーションがあって、それを説得することから始められる。

これについては、例えばライルワトソンの『ロミオ・エラー』なんかにも、実際に医学的にはもう亡くなったとされた人がひょっこり生き返った実例が多々紹介されていますよね。

で、その人たちの証言として、自分の葬儀の場面なんかで、知り合いとか懐かしい人たちがいっぱい集まってきて嘆いていたりしてたけど、本人は自分が死んだとは思ってないので、むしろそういう人々を安心させるために話しかける。
だけど、相手は全然聞こえないみたいだし、手で触れようとしてもすっと通り抜けたりして、どうもおかしい。
ああ、やっぱり自分は死んだんだと思ってみても、やっぱりピンとこない。自分からは向こうがはっきり見えて聞こえた感じているわけだから、ちゃんと存在している。
だのに、そういうのは存在として認めてもらえない。ということで非常に寂しい思い、まぁもどかしい思いをしたと言う。

そういう証言がよくあって、私自身も幼い頃に似たような話を大人たちから聞かされたことがあるような気がします。それがまたすごいリアリティーのある話で、その後も子供ながら列席するたびに、特にお通夜なんかもそうなんですけども、亡くなくなった人がどっかから見てるんだろうなぁ、話しかけてるんだろうなぁと想像しながら、うとうとと眠ったりしてました。
(ちなみに、大人たち、特におじさん達はお酒を飲みつつ陽気に亡き人の思い出話をしたりしてましたが、あれも死者本人に聞かせて楽しませるためだとか言ってるおじさんがいたのを思い出しました。)

そういう意味でも、ひょっとしたら死は情報でしかないのかもと思えて仕方がない。

それと、前回は不在と非在の違いということについてちょっと触れましたが、そこからさらに進んで「存在」とはそもそもどういうことなのか? 存在とは、存在様態のことなんじゃないか? というふうに考え続けてきて、ようやく謎の一端が見えかけてきたような気がするんです。ほんの微かに、ですけどね。

このことでまず問題になることの一つが、主観と客観ということかもしれない。
たとえば、今の世の中、特に日本なんかでは認知症がものすごい勢いで広がっているでしょう。私が子供の頃とは違う、何か病気みたいな形で広がっている。
昔だって「ボケちゃってねぇ」とか言われるお年寄りはいたけれど、今みたいに深刻な話ではなかった。
むしろほのぼのとした自然さがあった。
童還りというか、赤ちゃんに帰っていくプロセスみたいな微笑ましさすらあった。
で、周りもそれはそれとして暖かく受け止めていた。
そういう意識の「様態」もあるんだということがごく普通の感覚でみんなに受容され共有されていた。

ここのところにも、実は存在も「様態」の問題でしかないんじゃないかというヒントがあるんじゃないかな。

目に見えて触れなければ存在しないなんていうお粗末な発想だと、自分自身の存在も非常に貧弱なあっけないものになっちゃう。
ちょうど「呆け」なんていうのが差別語・軽蔑語でしかなくなってしまったように、なんだかせせこましい価値観で何もかもを区切ってしまって、人間同士のゆったりとした温かな広がりがどんどん削られていっているような気がしてならないんだけど、あなたはどう思います?

              To be continued

この記事が参加している募集

#ふるさとを語ろう

13,684件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?