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『エーゲ海パラドックス』について

ここのところずっと死について考えてるんだよ。
別に死にたいとか、死ぬのが怖いとか、そういうことではなくて、なんて言えばいいんだろう? とにかく、死ってあっけないもんなんだなぁっていう感じ?

この数年の間に、身近な人たちが相次いで亡くなったってこともあるんだけど、なんかね、悲しいとか寂しいとか、そういう感情はあまりなくて、なんだかよく分からないんだよね。ポカーンとした感じで。

以前その人たちが住んでいたところへ行ってみても、そこに残っているのは記憶というか、思い出だけでね。
もうその人たちと会えないんだということも、そんなに切実ではないし。
というのも、2020年以来、新型コロナ騒動のおかげで、ごく身近な数人以外はほとんど誰にも会ってなくて、そのうち人が生きてるっていうことの意味がよくわからなくなってきたんだよね。
理屈とかじゃなくて実感としてだよ。

「不在」っていう言葉があるじゃない。居ない、ってことね。
それと似た言葉で、あまり使われないけど「非在」っていう言葉もある。
「不在」は単にあるところにある時期いないというだけのことだけど、「非在」っていうのは、そもそも存在しないっていうことだよね。

だけど、もしもその人が 生きているか死んでいるか分からないとしたら、それは一体どっちなんだろう?
客観的な事実としてはどっちかに決まってるんだろうけれども、こちら側からすれば分かんないわけだよね、シュレディンガーの猫みたく。

僕は個人的に中学生の頃から哲学をやってて、自分でもいろんな概念というかコンセプトを作ったりもしてるんだけど、そんな中に『エーゲ海パラドックス』っていうのがある。
どういうことかって言うと、ギリシャ神話のあのテセウスとその父親であるアイゲウスのエピソードの一つが元になっていて、知ってる人も多いと思うけど、テセウスがクレタ島へとミノタウロス退治に出かけて行く時、父親にこう約束した。
「船が白い帆を掲げて戻ってくれば、私はあの怪物を退治して生きて帰ったものと思ってください。しかし、黒い帆を掲げたまま船が帰ってきたら、私はもう死んだものと思ってください」

ってことで、有名なアリアドネの助けとかの逸話があって、彼は無事にクレタ島から帰還するんだけど、その時、喜びのあまりなのか、うっかり出かけるときに掲げていた黒い帆のまま帰ってくる。
それを遠くから見たアイゲウス王は、絶望のあまり断崖から海に飛び込んで死んでしまう。
そこからその海のことを「アイゲウスの海」つまり「エーゲ海」と呼ぶようになったとか。

で、この場合も結局テセウスは実際には死んでなかったけれども、アイゲウスにとっては死んだのと同じことだった。というか、死んだのと同じインパクトがあったっていうことになる。

つまり、問題は情報なんだよね。
もっと言えば、生きている死んでるっていうのは究極的には情報に過ぎないのかもしれない。

                   To be continued

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