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『暴 力』

 子どもの頃から『人の悪口を言ってはいけない』と、教わってきた。これは、今も昔も変わらない道徳である。子どもという生き物は、ある意味、正直だから、空気を読んだり、気を遣って遠回しに、とか、オブラートに包んだり、とか、そういう作業は抜きにして、言葉を発してしまう。それが、言われた人にとって都合の悪いことであれば、『悪口』となり、それを口にした子は、『悪い子』と判断されることになる。

成長するに連れ、周囲の顔色を伺ったり、『良い子でいなくては』という気持ちも働いて、有りのままを発することがなくなっていく。

 『悪口』というものは、言われた側の受け留め方次第である。言われて嫌な気持ちになれば『悪口』であり、言ってくれてありがとう、という気持ちになれば『感謝』となる。微妙なサジ加減である。


 せんだって、表彰式の真っ最中に、司会者を平手打ちにしたと、何度もテレビニュースで映像が流れた。「暴力はいけない!ヤリ過ぎだった!」と涙ながらに謝罪した挙げ句、名誉ある表彰は取り消され、今後の活動にも支障をきたす…など、多くの犠牲を払うことになった。私は、百人のコメンテーターに聞いたら百人みんなが「そうだ、そうだー。暴力反対!」と意見が一致したことに驚いてしまった。


 言われた本人が、冗談と受け取れず、不快な気持ちにさせられたということは『悪口』を言われたということになる。これは、言葉の暴力というものだと、今まで習ってきた。

そう教えてくれた学校の先生にお聞きしたい。「言葉の暴力と肉体に与える暴力、どっちが重いかなんて、計れるのですか?」と。

しかも、親から受け継いだ体のパーツや体質など、自分の努力では改善できないことに対する批判は止めて頂きたい。顔の造りが整っているとか、スタイル抜群とか、見た目で得をしている人に反して、他人が気にならないことでも、本人にとっては悩ましいと感じていることもあるのでは?そこを突いた言葉の暴力、、他人事とは思えない。自分だったら、と置き換えて受けとめてしまう。

 口に出してコメントすると、反感を買う恐れがあるかも…と、右へ倣い!をしている人もいるかも知れない。私とて、大声で言える立場でもないから、静かにつぶやくしかない。ひょっとしたら、暴力を擁護した、と非難されるのかも知れない。しかし、放ってはおけない。


 何があっても暴力はいけない、という考えが正しいことは知っている。でも、それが全てではないのかも知れない。

 百人いたら百通りの考え方があるように、正解が2つも3つもあっていいではないか。私は、愛する家族を守るために立ち向かったという事実に注目して、同情票を入れたい。

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