安曇野いろ「シナノガキ」
空地の隅で大きく育った実生のその木を、気に留めるものは誰もいなかった。涼やかな枝ぶりで美しい木だなあとは思っていたけれど、私も何という木か知ろうと思ったことはない。「これは何の木だろうか?」と思う人がいて、たまたまスマホアプリで検索してくれた人がいて、「シナノガキではなかろうか」ということで落ち着いた。調べてみるとシナノガキは準絶滅危惧種で、今では自生が稀だという。かつては柿渋を取るのに使われていて、信州でもあちこちの庭で植えられていたらしい。
「この木は何の木?」と問題提起してくれたのはアンティークギャラリー「閤」のご主人。そこにお客さんとしてやって来たのが、柿の研究をしている知寿さんだ。シナノガキという名前を聞いたとたん、知寿さんの目の色が変わる。いつも持ち歩いていらっしゃるという分厚い資料のファイルを開き、滔々とシナノガキのことを話し始めたのだった。
青い小さなベレーを頭に乗せて、ゆったりした白いチュニックを着て、夢見るように、それでいて熱くシナノガキを語る知寿さんは、まるで柿の木の精霊のようだった。ふつうの柿の四倍もの殺菌効果を持つ柿渋を有するシナノガキ。ウィルスの脅威にさらされる今だからこそ、シナノガキの木を保存して、利用する価値があるのではないかとおっしゃった。
それまでは、名も知らぬ一本の木だった。名前がわかったと思った矢先に、今度はシナノガキの使いのように、知寿さんがやって来た。数が少なくなっているこの木のために、人工授粉をしたり、効能を訴えてあちこちの役所や薬品会社などを渡り歩いたという話を聞きながら、縁が深まっていく不思議を思った。だれかが気に留めたことで、何かが始まる。最初は報われないことが多いのかもしれないけれど、きっと、少しずつ何かが変わっていく。そう思いながら、私もこの木のことを書き留めておくことにした。
悲しいことがあった矢先に、足もとにぽつんとシナノガキの実が落ちて、「ああ、なんてきれいな実なんだろう」と思ったという。それが知寿さんとシナノガキの出会いだった。このひとならと、彼女を選んでシナノガキは落ちて来たのかもしれない。朱い実に思いを託して。
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