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安曇野いろ「風の草刈り」

「電動バリカンで植木を刈ったら翌年花を付けなかったんだよ。
花芽もみんな刈っちゃったんだなあ」と友人が言った。
「でも、その翌年はちゃんと手刈りで切って、満開だったの」と奥さまの優しいフォローが入った。
夫も「そう言えば…」と畑での話を披露した。
「野菜の畝のまわりに植えてある緑肥を、草刈り機で刈り倒したら、緑肥がだめになっちゃった。面倒でも手で刈らないとだめだね」
 私は、自然栽培の教室に通っていた時に耳にした「風の草刈り」という言葉を思い出していた。自然のままに生えている草は風に吹かれて茎が折れ、折れた部分から自然に枯れて大地の栄養になって行く。
ひとによる「風の草刈り」は、風のようにやわらかく鎌を使い、草を刈って行く方法だ。大地を丸刈りにしてしまうのではなく、草刈りをしたあとには長いの短いの、不ぞろいの丈の茎が残る。けれど、そこにはたしかな風の通り道が出来ているし、土の下にはより良い水の流れが出来ていく。
 草木は大地の毛髪。根はリンパの流れ。水脈は大地の血管。ならば、その流れは清く滞らないようにと、心に留める必要がある。
草を刈り、土を耕すとき、そのことをふいに思い出す。

ジャン・ジオノの『丘』を読んだ。
「そこは丘と丘の間の窪地である。その窪地は大地の肉体が湾曲して豊かに盛り上がっているいくつかの丘に囲まれている。レンゲの花がオリーブの木々の下で血のように咲いている。幹から甘い樹液をにじませている白樺のまわりで、小さな蜂たちが踊る…」
 静かに美しく語られる自然描写は、初めから息づかいのある生きものの気配を漂わせ、読み手の心を落ち着かなくさせる。
 レ・バスチッド・ブランシュ(白い集落)は、野生のラベンダーが繁る砂漠と平原との間にある廃墟のような集落だ。リュール山の麓の冷たい陰にあり、風に支配されている。水のような空をハゲタカがセージの葉のように旋回し、泉の水を野生動物と人とが分かち合う。
集落にはたった四軒の家しかない。住人は十二人とひとり。そのひとりとは、どこからともなくやって来た知恵遅れの男で「ガ、グー」と二音しか発しない。名前はガグー。
集落の人々は互いに助け合い平穏に暮らしている。取り立てて豊かというわけでもないが貧しくもない。水場では女たちが洗濯しをしおしゃべりをする。男たちは畑仕事に精を出し、夕べには自家製のアブサントを手に笑い合う。
 しかし、長老のジャネの具合が悪くなり、もう手の施しようがないと医者に告げられてから、ちいさな軋みが集落にもたらされる。ジャネはベッドで意味の分からないうわごとを繰り返す。じわじわと災いが舞い込み始め、住人たちはジャネのうわごとに耳を傾けだす。とりわけ娘婿のゴンドランとまとめ役のジョームは、ジャネのうわごとの比喩を探ろうとし、大地の悪意を感じるようになる。
 立て続けに起きる災い。井戸が枯れ、幼い娘が病に伏す。人々は怯え、苛立ち、妄想に振り回される。緊張感が頂点に達したとき、火事が起きる。
 男たちは心をひとつにして火と闘う。火を消し止め住処を守ったジョームはつかのま勝利を味わうが、また次に大きな災いがやってきたら? と考えて戦慄する。そして、災難をもたらしたのは、自然と手を組んでいるジャネの悪意なのではと結論する。
 男たちが話し合い、死にかけているジャネの息の根を止めようとする。ゴンドランが手を下そうとしたとき、ジャネは自然に息を引き取る。
 ジャネの死と共に、枯れていた泉の水がふたたび音をたて始める。

 緊張しながら読み続けた。最後は安堵で幕が下りる。
だが、安心はできない。牧歌的な文章の中にいくつもの警告がちりばめてある。作者ジオノの警告が胸にひびく。
 山から下りて来る獣、大雨に地震、日照りに土砂。
あちこちで起きている戦禍にも、日常のちいさなことどもにも、私たちは胸をいため続ける。だが、なす術もなく立ちすくみ、ジャネのようにうわごとを繰り返して、心の中に澱をためていく。
 今の私たちこそ、大地をつかさどる牧神(自然)が人間をこらしるために動き出したのだと妄想してもいい。

 ジャネは言う。
「樹木、これは強い。樹木は曲がりくねった枝でもって百年もの間、空の重力を押し返してきた。
 動物、これは強い。とりわけ小さな動物たちは。
動物たちは岩の窪みでたったひとりで眠る。草の窪みでひとりきりだ。
動物たちは強い心を持っている。おまえが彼らを殺しても、彼らは叫ばない。おまえの目を見据える。目の針でもっておまえを突き刺すのだ」

では人間は? 人間は強いのだろうか?
人間もかつては強かったのだろう。動物や樹木のように。
そして、牧神に守られていただろう。
今は、牧神のもとを離れ、自分たちの世界によりかたまって暮らしていて、限りない不安におびえている。
 
 
 

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