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「繰り返す」

「二十四の瞳」壺井栄・新潮文庫

「大人は本を目撃者のように読むが、子どもは本を台本のように読む)」。どこかでそんな言葉を読み、なるほどと思ったことがある。子どもというのは、確かに知っているお話が大好きだ。保育園に勤めていた頃も子育てをしていた時も「知らない話をして」と言うのと同じくらい「いつものあの話をして」とせがまれた。話し終えた途端に「もういっぺん」と言われた時はさすがに勘弁してとも思ったが、子どもにとって繰り返しは、決して退屈な事ではないのだと気づかされた。繰り返しには、知っている道を歩くような安心感がある。その安心感に浸りたくて、子どもは飽きることなく同じ本を眺めたり、延々と同じ動作を繰り返す遊びに興じたりするのだろうか。それは物を覚えるための本能なのだろうか。それとも、もっと別の深い意味があるのだろうか。
お話会が終った後で、親子のこんなやり取りによく出会った。子どもがしっかりと抱えている図書館の本を巡ってのことだ。「おうちに同じのがあるでしょ」と母親。「この本がいいの」と譲らない子ども。母親の言い分はよくわかる。だが幼い子どもには、家にあるのと同じ本と言う概念はないのかもしれない。手にしたその本が読みたいと思った本なら、家にあろうがなかろうが、抱えているのは世界で一番読みたい本なのだ。同じと思わずに、新しい目で見ることが出来るから、子どもは一冊の本を擦り切れるほど読み続ける事ができるのかもしれない。「うちの子は同じ本ばかり読んでいて困る」と嘆く親は多い。だが、お気に入りの本を見つけた子は、幸せだろう。繰り返し読んで、その世界を自分のものにする事が出来るのだから。やがていつか、その子はお気に入りを卒業する。そして、しっかり読み込んだお気に入りの世界を土台にして、別の何かに向かって歩き出すのだろう。そうなのだ。繰り返しという行為の中には、ふたつの正反対なものが隠れている。「発見と懐古」。新しいものを見つけたい気持ちと懐かしさを共有したい気持ち。この正反対の欲求を満たす為に、もしかしたら人は物語を繰り返し辿るのではないだろうか。
 ふと、故郷を訪れた時の心の揺れを思い出した。子どもの頃に遊んだ神社の松の木が同じ姿で立っているのを見て安堵し、脇を流れる川の幅の狭さに驚く。「ああ、そうか、自分が大きくなったからだ」と気づいて、その変化にたじろぐ。帰郷の度、繰り返されるその心の揺れが不快かと問われればそうでもなく、不変なるものと無常なるもので、人生は編まれているのだとしみじみと思う。
 故郷を訪ねるような気持ちで、繰り返し読んできた本がある。小豆島に赴任した大石先生と子どもたちの交流を描いた物語「二十四の瞳」だ。胸が痛くなるほど懐かしい風景と懐かしい人々が、本を開くと、変わらない姿でそこに在る。
久しぶりに本を読み返し、壺井栄の両親が、貧しい中で自分の子ども十人の他に二人の孤児を育てたこと、作者自身も、親戚の子や孤児を次々と引き取って世話した事を初めて知った。作者の子どもへのまなざしの公平さと慈しみの深さの出所を知り、また新たな思いで本を読み返す事ができた。豊かさとは、何もかもが満ち足りている事でなく、足りないものだらけの中で何かを得た時に感じる感謝の気持ちの深さなのかもしれない。貧困や戦争の最中でも輝いていた人間の存在を感じたくて、そういう人々が懐かしくて、私はこの本を、繰り返し、繰り返し読む。 


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