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「魂のかくれんぼ」

「あおくんときいろちゃん」
  レオ・レオーニ・至光社

 絵本は、「読む」よりも「体験する」と言い表した方がしっくりくる。文字だけの本と違って、視覚で味わう部分が大きい為だろう。
私は今、四期目の絵本体験中だ。一期目は、自分自身の子ども時代。二期目は我が子の子育てで。三期目は、公共施設でお話会をしている時。そして四期目の今は、孫を相手に、今までの総集編のような気持ちで絵本を開いている。
 本棚には絵本が随分ある。ずいぶん手放しもしたが、お話会で使う絵本は残してある。それもいずれは、孫の手に渡るのだろうが、最後の最後まで手元に残る絵本は、五期目の絵本体験で、老後の私が楽しむ事になるのだろう。
孫が本棚の前で思案顔。やがて、絵本を抱えてやって来る。手当たり次第という訳ではなく、いつも数冊の中から交互に選んで持ってくる。どうやら、お気に入りがあるらしい。絵を楽しんでいるので、ページを繰る手は、前に戻ったり、後ろに飛んだり。「おしまい」と閉じても、また最初のページを開いたり。読むのが面倒になり、相づちだけ打っていると、ちゃんと相手をしろと要求される。同じ言葉を繰り返し聞いて、頭の中に言葉を蓄積しているのだろう。辟易しつつも何だか面白い。相手をするうちに、ストーリーとは関係の無い新しい絵本の楽しみ方を会得できたのかもしれない。順を追って物語を辿るのはまた先の楽しみ。絵の中に見えるものを、自由に楽しむのが幼児期の絵本体験だ。時には叫んだり、笑い転げたりしながら絵を辿る。馴染んだ絵本を、一歳児が縦横斜めと角度を変えながら、五感で味わい尽す姿を見て、私はちょっと感動した。こんなにいじられて、絵本冥利に尽きるなあ、と。
レオ・レオーニの『あおくんときいろちゃん』も、そんなお気に入りの一冊だ。揉まれ引っぱられた挙げ句、丈夫な紙がくたくたになった。私自身も好きな絵本だが、大人の感傷的な思いで好きなのであって、子どもにはちょっとわかりづらいのではないか、ずっとそう思っていた。だから、残念な事にお話し会では使わずじまいだった。
 紙をちぎって貼り付けただけの単純な構図。その単純な色の配置が限りなく美しい。青くて丸いのが「あおくん」。細長い青と楕円形の青が、「あおくんのパパとママ」。あおくんの一番の仲良しは黄色くて丸い形の「きいろちゃん」。あおくんときいろちゃんは、絵本の中を飛んだりはねたり。追いかけっこをしたりかくれんぼをしたり。ある日、ふたりは一緒にいるのがうれしくてうれしくて、抱き合ったままひとつになってしまう。青色と黄色が混じって緑色になったので、うちに帰っても、パパとママに、わかってもらえない。かなしくてかなしくて泣き出すみどりちゃんから、黄色い涙と青い涙がこぼれ出る。その涙が集まって、二人はもとどおりのあおくんときいろちゃんに戻る。そして無事にそれぞれのおうちに帰っていく。
他人との関係を考える時、知らずこの絵本を思い出している。あおくんときいろちゃんは、擬人化された子どもというより、魂の形と色なのだと思えてくる。「静」のあおくんは、片割れの「動」のきいろちゃんを捜し求める。いくら大好きな相手でも、すっかり混じってしまったら……自分自身を見失う事になる。そんな理屈はさておき、青い色と黄色い色が見え隠れする絵本を繰り返し見ているうち、人生って、出会っては別れ、見失っては見つける、魂のかくれんぼみたいだなと思えてきた。 

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