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「慎み」

「あなたのために―いのちを支えるスープ」
  辰巳芳子・文化出版局

 正月に、信州に帰った。野沢菜をひと桶持って帰るようにと、母はすでに帰る時の準備をしていた。桶は重かった。持ち帰っても保管に困る大きさだ。母を説得し、小さなポリバケツに移し替えた。
味噌倉と呼んでいる土蔵の暗い一室には、漬物桶がいくつか並んでいる。昔は味噌も作っていたが、味噌桶はもう長いこと出番を失っていた。電球を替えようとして暮れに父が踏み台から落ちたから、「餅つきも出来なかった」と漬物を出しながら母がぼやいた。その父が作った干し柿が、軒下にオブジェのようにぶら下がっていた。
「食」とは己の欲ではなく、克己心に支えられたものだと、父母を見ていて思う。自分のためよりも、誰かに食べさせたい、その一心だ。だが、その田舎の食卓も変わりつつある。老いてゆく両親にとっては、手作りの物よりもスーパーの食材の方が便利でありがたいのだ。
 購読していた「母の友」で、料理家の辰巳芳子さんを知ったのは四年前のことだ。そこには、食べることは命の手ごたえを感じること、決して手抜きをするなと書かれていた。だが無精者の私は、すぐに実行に移せなかった。覚えてしまった「楽」を手放すのが惜しかったからだ。
昨年、テレビで辰巳さんが「いのちのスープ」について話されるのを聞いた。
「人生の始めと終わりは、母乳に等しいスープで、飲む人も供する人も支えられる」。力がある言葉だった。「かき混ぜながら、祈るんです。スープ作りは祈りなんです」。病の父上のために作られた「いのちのスープ」。他の食べ物は受け付けなかったが、病人はスープだけは喜んで飲んだと言う。「胃袋に落ちる前に、どこだかわからないけれど体が吸ってしまう」「指の先までしみいるよう」そんな言葉で表現される食べ物は、まさに作り手の祈りと愛から生まれるのだろう。
昨年、辰巳さんの本を三冊求めた。本を見て、すぐにでも何か作ってやろうという気持ちだった。だが
、前書きで、静かに戒められた。「作りたい所だけ拾い読みせずに一度は通読して欲しい」とそこには書かれていた。「拾い読みすると言う取り組み方は、自分のしていることが本当にはわかっていないで行動する人の動きに似ている。通読してから、必要に応じたページを開くと料理と仕事の位置づけがおのずからつかめる。そして年とともに仕事は掌中に、楽しみと喜びは心中に宿るようになる」
私は忙しい暮らしの中で、見よう見まねで料理をしてきた。手早く作れるのが自慢でもあった。だが、自分のしてきたことが果たして料理であったろうかと恥ずかしくなった。食とは、その日をしのぐものでなく、積み重ねて豊かになっていくものだろう。
「二十一世紀は慎みの時代」と辰巳さんは言う。慎みとは分をわきまえること。ないものを求めず、欲に振り回されず。そうすれば、賞味期限のごまかしや添加物まみれの食品もいずれは消えてゆくかもしれない。「春は、萌えいずるいのちを。夏は、ものたちの生気を。秋は、実りの滋味を。冬は、耐える力を」その季節の食べ物に貯えられた力をいただくことで、私たちは自然とのつながりを思い出す。

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