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安曇野いろ「旅の道連れ」


 どうしてもなじめなかった村上春樹の作品を、読めるようになったのは
サリン事件のインタビューをまとめた「アンダーグラウンド」を読んだことが大きい。インタビューなので、語る人の内面が骨子をなしているわけだけれど、その内面を引き出し文字にした村上春樹と言う作家のすごさを実感した。具材の持つ旨味や特性をうまく引き出し、時間をかけて丁寧に作られた料理のような、と言えばいいだろうか。料理人の姿は見えなくても、味わってみれば料理した人の心が感じられる。そんな作品だった。それで見直した、と言うのも変だけれど、昔読めなかった作品を手に取ってみた。
 人生には裏通りも表通りもあるのに、表通りを歩いていれば安心みたいな思いがあった。気持ちよく歩いていたら、ふいに路地裏の暗がりに引っ張りこまれるような村上作品が好きになれなかったのだと思う。人生も半ばを疾うに過ぎれば、暗がりをしっかり見極めたい思いも湧いて来る。私にとっては今が最良の出会いだったのかもしれない。若いときに読んでおけばと言う思いが無きにしも非ずだけれど。
 
 「スプートニク」は初めて宇宙を飛んだロシアの人工衛星の名前だが、物語の主人公(ぼく)の友人すみれの恋人ミュウが文化派閥の「ビートニク」と「スプートニク」を言い違える。ぼくとスミレの間で、ミュウは「スプートニクの恋人」と呼ばれるようになる。
 スプートニクのロシア語の意味は「付随」転じて「衛星」を意味するが、本の中では「旅の道連れ」と訳される。
 スプートニクという、中心をなさないあいまいな存在が小説の中にうまく溶け込んで機能する。「ぼく」はスミレを愛しているが、スミレは同性のミュウを愛している。ミュウはある出来事を通して、人を愛せなくなっている。三人は互いにとても近くにありながら、決して交わることがない。衛星のように。そして、ある意味、人はだれもが孤独であり決して交わることはないのだと気づかされる。

私には小説家になるための何かが欠けているのかもしれない」とすみれが言う。「ぼく」は中国の門の話をする。「古戦場から白骨を集め、それを塗りこんだ門を作る。そして、その門に、生き犬の喉を割いた血を塗りこめる。干からびた骨と新しい地が混じり合い、そこで初めて古い魂は呪術的な力を持つ。」「つまり、ほんとうの物語にはこっち側とあっち側を結び付けるための呪術的な洗礼が必要とされるんだ」
 比喩的な意味で語られたこの門の話が物語後半で深い意味を持つ。
 そして、また、喉を切られる犬の話は、スプートニク2号に乗せられたライカ犬へと知らず意識はつながっていく。ライカ犬のことを思うと、いつでもつらい。理不尽な死を遂げた人や動物は数知れないが、それらすべてを合わせたより、ライカ犬の死は胸を貫く。いやもしかしたら、それらすべてを一匹のライカ犬が象徴しているのかもしれない。
 初めて宇宙を見た地球の生きものと言う名誉は、ライカ犬にはわからない。狭く息苦しい空間で、どれほどの恐怖を味わっただろう。スプートニクに乗ったライカ犬の記念切手の写真を見たことがある。犬は細い顔で賢そうな目をしていた。一匹の犬が宇宙空間で高熱で焼かれたとき、そこに呪術的な力が働いて、もしかしたら、犬はあっち側のどこか幸せな空間に放り込まれたという物語を考えることで、少し気持ちが楽になる。
 
「わたしはほんとうの私の半分になってしまったの」とすみれと出会ったばかりのミュウが口にする。読み流していた文章を、終章から戻ってまた読み直した。前半部分に落ちている「証拠」を拾い読みしながら、クライマックスの不可思議さの海にまたもぐりこむ。ギリシアの海だ。ギリシアのどこかに消えてしまったすみれが、なぜかライカ犬に思えてくる。ひとりぼっちで宇宙空間を漂うライカ犬に。

読み終えた後で、もう一度最初のページを開いた。
「22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩き潰した。そして勢いをひとつまみもゆるめることなく大洋を吹きわたり、アンコールワットを無慈悲に崩し、インドの森を気の毒な一群の虎ごと熱で焼きつくし、ペルシャの砂漠の砂嵐となってどこかのエキゾチックな城塞都市をまるごとひとつ砂に埋もれさせてしまった。みごとな記念碑的な恋だった。恋に落ちた相手はすみれより17歳年上で、結婚していた。さらにつけ加えるなら、女性だった。それがすべてのものごとが始まった場所であり、(ほとんど)すべてのものごとが終わった場所だった」
 なんと大げさなと最初は思ったが、なるほどと今は思える。
 物語はすべて、ミュウと言うひとりの人物の中で起きたことともとれるし、すみれの中で起きたことともとれる気がした。

茫洋とした意識と無意識の海のことを思い浮かべる。こっちとあっち。過去と未来。海と宇宙。それらすべてをひとつにしたどこか遠い世界のことを考える。


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