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【連載小説】怒らない恋人/第一章:完

前回の話


 莉奈が潤也にフラれたらしい。その報告を聞いたのは、大輝の部屋でだった。
 その日は、記念日を忘れていたお詫びに大輝が手料理を振る舞ってくれると言ったので、私は仕事が終わってから真っすぐ大輝が住むアパートに向かった。「記念日のことは気にしなくていいから」と何度も大輝に言ったのだが、私はそれなりに楽しみにしていた。というか、かなり楽しみだった。大輝の手料理を食べるなんて初めてだ。
 でも、私を部屋に迎え入れた大輝の第一声はこうだった。

「莉奈が大変なんだ」

 怒りを通り越して、私の頭は妙に冷え切っていた。ああはい、また莉奈ですか。そうですよね。期待した時はいつもそう。私の期待は莉奈に打ち砕かれる。
 私の冷え冷えとした感情にもまったく気が付かず、大輝は聞いてもいないのに話を続ける。

「潤也くんに別れを切り出されたらしいんだ」

 へー。そうなんだ。ついに莉奈はフラれたのか。私は驚かなかったが、何故か大輝がとてもショックを受けていた。おそらく莉奈からのメッセージが表示されているであろうスマホの液晶画面を厳しい表情で睨みつけている。
 キッチンには、エコバッグに入ったまま放置された食材。手料理を振る舞ってくれると言っていたけど、どうやら計画は頓挫しているようだ。もう大輝の頭の中には莉奈しかいない。
 俺の頭の中には常に由依がいると大輝は言っていたのに、私と一緒にいる時の彼は、莉奈のことしか考えていないように見える。莉奈と一緒にいる時にも私のことばかり考えているらしいが、それって逆じゃない? どうして目の前にいる人のことを考えないの?

「俺、莉奈のところに行かなきゃ」

「は? なんて?」

「莉奈は今から潤也くんを説得しに行くらしい。俺も一緒に行く」

 使命感に燃える眼差しで大輝は宣言したが、私には頓珍漢な提案にしか聞こえなかった。
 たぶん、莉奈がフラれた原因のひとつは大輝だと思うんだけど。大輝が行っても火に油を注ぎまくって炎上するだけだ。いや、それよりも……、

「なんで大輝が、そんなことしなきゃいけないのよ」

「だって、頼まれたから」

 頼まれたから? タノマレタカラ。
 今、何か答えが出そうな気がした。私ではなく莉奈を大事にしているように見える大輝の行動。その答えが見えたような気がしたのだ。

「ちょっと待ってよ。そもそも、大輝が行ったからって解決するの? 莉奈さんと潤也さんの問題でしょ?」

「わかんないけど、莉奈が来てくれって言ってるし。由依だって、莉奈と潤也くんが別れるなんて嫌だろ? 」

 ぶっちゃけ、よそのカップルの別れ話なんかどうでもいい。でも、真剣な眼差しで問い掛けてくる大輝を見ていると、曖昧に微笑むしかできなかった。私が冷たいのかな? いや、それよりも、現実的な問題が山積みだ。

「大輝だって潤也さんとはあんまり話したことないでしょ? 何を話すの? どうやって説得なんかするの? 」

「台詞が決まってるから、大丈夫だと思う」

「は? 台詞?」

「莉奈が考えた台詞を、俺が言えばいいってことになってる。俺が莉奈をうまくフォローすればいいんだ。莉奈の長所をアピールする」

 何を言ってるんだ。就職面接じゃないんだから、そんなにうまくいくはずがない。莉奈はこんなに素敵な女性なんです、今後も付き合いを続けた方が貴殿のためになると思いますよ。とでも言うつもりなのだろうか。
 大輝のスマホから通知音が何度も鳴り響く。きっと莉奈がメッセージを送ってきているのだ。私と会話しながらも、大輝は液晶画面をちらちらと覗いている。私も一緒になって大輝のスマホを横から覗き込んだ。

『早く来てよ! 潤也くんに嫌われたくない! 』

『大輝からも言ってよ! 潤也くんを引き止めてよ! 』

 莉奈が焦りまくっているのが液晶画面越しにも伝わってくる。まるで子供だ。
 莉奈は意外と純粋なのかもしれない。自分の願望以外は無関心。周囲をどれだけ振り回しているかなんて眼中にない。
 それにしても、こんな駄々っ子みたいなメッセージを送ってくる莉奈を、大輝はうっとうしく思わないのだろうか。私だったらちょっと笑っちゃうけど。
 でも、液晶画面を見つめる大輝の表情は真剣そのものだ。
  
「由依も来ないか? 由依がいてくれるなら心強いし。莉奈も喜ぶよ」

 えーと。今日は私に手料理を振る舞うんじゃなかったの?
 そんなことを聞き返す気力も失っていた。そして、私の頭の中でひとつの答えが導き出される。
 何かを頼まれること、頼られること。大輝はそれを断れないのだ。嫌われたくないのか、それとも、頼られることに生き甲斐を感じているのか。理由はよくわからない。
 とにかく、大輝にとっては、一番自分を頼ってくれる存在が莉奈なのだ。頼られると断れない大輝は、次々と頼み事を持ち込んでくる莉奈から離れられない。厄介な頼み事であればあるほど断らないのだ。だとしたら、私は完全に莉奈に負けている。
 いかに大輝の負担にならないか。そればかりを考えていた。でも、大輝は負担になる頼み事を率先して引き受け、そちらを優先してしまう。
 もし、ここで私が「いやだ! 今日は私に料理を作ってくれるんじゃなかったの!? 行かないで! 」と言える性格だったなら、莉奈に張り合えるかもしれない。試しに言ってみようか。

 ……馬鹿馬鹿しい。

 唐突に、そう思った。
 どうして私が、「俺のために争わないでくれ」ごっこに付き合わなきゃいけないんだ。とんだ茶番だ。
 どうして莉奈に対してこんなに嫌な気分になっていたのかも、今はっきりわかった。莉奈が大輝を友人扱いしていないからだ。莉奈にとって大輝は、都合よく動いてくれる相手。友人どころか下僕レベル。連絡をすればすぐに返事をくれる。呼び出せばすぐに応じる。助けてと言えばすぐに助けてくれる。「友人」という言葉を使えば、何のお礼もいらない。そして、言いなりになっている大輝にも腹が立っていた。
 莉奈は大輝をちっとも大切にしていないし、大輝も莉奈の指示に従うだけ。だから、私はずっと悩んでいたのだ。せめて、大輝と莉奈が、互いを心の底から大切にしている本物の友人同士であったなら良かったのに。

「ほっとけばいいじゃない。莉奈の自業自得よ」

「自業自得って。なんで?」

「わかんないの? とにかく、大輝は行かなくていいよ」

「でも、莉奈には嫌われたくないし。長い付き合いだからさ」

 笑っちゃう。結局、我慢しないもの勝ちじゃないか。私は大輝との関係を続けたいから、自分の不満を呑み込んでたくさんのことを我慢していたのに、こいつはいったい何を我慢した? 好きな時に好きな人と会って、好きなことを話して、そのくせ「嫌われたくない」って、馬鹿みたい。申し訳なさそうな顔をしているけど、それだけだ。私に我慢をさせていることにも気が付いていない。
 優しい大輝を誠実だと思ったけれど、とんだ勘違いだ。鈍感という凶器を振り回して周囲の人間を殴りつけてくるとんでもない悪人じゃないか。

「誰からも嫌われない方法なんて存在しないよ。少なくとも、私は大輝のことを嫌いになり始めてる」

 言葉にした途端、自覚した。私は、大輝のことがとっくに嫌いだったんだ。でも、認めたくなかった。この人しかいないと一度は思ったから。

「私、大輝が莉奈とばっかり仲良くしてるのがすごく嫌だった。莉奈のことも大嫌い。莉奈と過ごす時間よりも、私との時間を優先してほしかった。莉奈に会ってる暇があるなら、私と会ってほしかった」

 次から次に言葉が出てくる。最後の最後でやっと本音を言えるなんて情けない。
 大輝は、ただ驚きに目を見開いている。皮肉なことに、大輝が初めて私を真っすぐ見てくれたような気がした。

「そんなに俺と莉奈が仲良くしてるのが嫌だったのか? どうして言わなかったんだよ。言ってくれれば、もっと由依との時間も作ったのに」

 今度は私が驚きに目を見開く番だった。
 この人は何を言ってるんだろう。私の話をまったく聞いてなかったの?

「言ったよ。私の前で莉奈の話をしないでって、何度も言ったよ! 私を優先してって言ったじゃない! 」

 何度も繰り返したのに、大輝は私の要望を無視した。いつでも莉奈の話をして、莉奈と会って、私よりも莉奈を優先した。私はそう記憶している。どうしてこんなに噛み合わないんだ。

「だって、由依は一度も怒らなかったじゃないか。いつも許してくれただろ? 莉奈のことも嫌いじゃないって言ってたし。それに、由依は会いたいって滅多に言わなかったから」

 なんてことだ。大輝の負担になりたくない気持ちがここまで裏目に出ていたとは。仕事が忙しい大輝に「会いたい」なんて言っては押し付けになる。めんどくさい女になりたくない。そう思っていた。でも、はっきり言わないと大輝には伝わらなかったんだ。
 莉奈のこともそう。私は、莉奈と大輝の関係をはっきり否定しなかった。それどころか、一度は莉奈と仲良くしようとまでしていた。
 恐かったからだ。莉奈と大輝を引き離すのは無理だと、心の底ではわかっていた。だから、はっきり言えなかった。私の本気の要望を口にすれば、私たちの関係は終わるとわかっていた。
 由依が嫌がることはしたくない、由依が困ることはしたくない。大輝はそう言っていたけれど、私は「困ること」も「嫌がること」も、上手く伝えられていなかった。勝手に我慢してばかり。
 私の我慢がいつの日か実って、大輝の方から「今までごめんな。もう莉奈とは会わないよ」と言い出してくれるのではないか。心の奥底に、そんな願望があった。好きな人のために我慢するのは健気でかわいい? いつか報われる? そんなわけない。我慢が生み出すものなんて、ストレスだけだ。
 ついさっき、私は大輝のことを莉奈の下僕だと思った。でも、もしかしたら、私も大輝の下僕だったのではないか。大輝に嫌われたくない気持ちが強すぎて、私は彼に逆らえなかった。我慢して莉奈の存在を受け入れるしかなかったのだから。

 お互い無言になって静かになった室内に、大輝のスマホの通知音だけが響く。通知音が鳴る度に、大輝は液晶画面に視線を向けている。私はもう一度、キッチンに放置されているエコバッグに視線を向けた。
 あーあ。大輝の手料理、食べてみたかったな。何を作るつもりだったんだろう。ていうか、大輝って料理できるのかな? そんなことも知らなかった。莉奈は知ってるんだろうな。

「由依が俺のことを嫌いになるっていうなら、もう俺には引き止める資格はないよな。由依を困らせることだけはしたくない。今までごめん」

 でしょうね。あなたが選ぶのは莉奈だよね。というか、あなたが一番大事なのは、莉奈でも私でもなく、頼み事を断らない自分自身。女友達の頼み事をなんでも解決してあげるカッコイイ俺。
 莉奈と縁を切ってくれとはっきり言えなかった時点で、私と大輝は既に破局していたのだ。「この人にだけは嫌われたくない」という気持ちを、大輝は私に対して持っていない。大輝自身も気が付いていないけど、私はとっくにフラれてたんだ。
 暇な時間ができた時、私が最初に思い浮かべる相手は大輝だ。でも、きっと大輝は違う。大輝が思い浮かべる相手は、少なくとも私じゃない。
 もし、莉奈が男だったとしても、結果は同じだったんじゃないかな。男女の友情はアリかナシか。そういう問題じゃなかったのだ。何を最優先にすべきか。私たちはそれが一致していなかった。

「由依を困らせてばかりで本当にごめん」

 大輝の謝罪を聞いた途端、涙が溢れそうになった。別れが辛かった訳じゃない。たまらなく好きな瞬間もあったはずなのに、今はもう、その瞬間をひとつも思い出せないことが辛い。

「さよなら」

 踵を返して部屋を出ていく。もう二度と来ないだろう部屋をあとにすると、一瞬の清々しさが訪れ、そして、息苦しいほどの寂しさに襲われた。あんなに好きだったのに、どうして。
 どうすればよかったんだろう。どこで間違ったんだろう。
 もし、私が思いっきりワガママに振る舞って、莉奈と同じくらい図々しく大輝に頼み事をしたり、大輝の都合なんか考えず頻繁に呼び出したりしていたら、彼は私を優先してなんでもしてくれたかもしれない。だけど、それは私が望んでいる恋人同士じゃない。ただの主従関係で、私は大輝のご主人様に成り下がる。
 でも、大輝のことを考えて我慢し続けた結果、私が下僕になってしまった。

 あーあ。難しいな、恋愛!
 
 運命の人、理想の恋人。都合の良い言葉に振り回されてばかり。きっと、理想の相手なんかどこにも存在しない。だからこそ、お互いの理想にできるだけ近づくように歩み寄っていかなければならなかったのに。
 大輝は今から莉奈のところに行くのだろうか。「莉奈と別れないでやってくれ」と潤也に向かって訴えている大輝の姿を想像すると、あまりに滑稽で笑ってしまう。ていうか、大輝が潤也を説得するなら、莉奈が私を説得しに来るべきじゃない? 「大輝と別れないであげて! 」って。それはそれでホラーだけど。
 ……え? まさか、来ないよね?
 思わずスマホを確認したけど、莉奈からの連絡はない。いやいや、まさか。まさかねー。莉奈は大輝のためにそこまでしないでしょ。
 自分に言い聞かせて納得したものの、大輝のアパートが完全に見えなくなる距離まで歩いてから、念のため莉奈と大輝のアカウントをブロックした。
 いやー、恋愛も友情も難しい。

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