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人は何をもって平常であるのか

社会契約論というものをご存知だろうか?

義務教育課程であれば必ず通るであろうワードであるが
世界史の18世紀あたりでは定番で出題されるであろう

人が生まれながら何かに従い生きているのは何故だろうか
当時のヨーロッパでは王政がひかれ
日本では天皇を掲げながら領主が存在していた

なぜ生まれた時点で何かに従う必要があるのだろうか
その正当性はなんだろうか

そんなことを考えた人達が当時のヨーロッパにいたわけである
当時のヨーロッパは王政に対する不信もあり
その擁護と批判のために社会契約論が唱えられた

リヴァイア・サンでお馴染みのトマス・ホッブズは
人間とは自然状態において自己の自由・生命・財産は
常に他者によって脅かされる危険性をはらんでいると説く
つまりは「万人の万人による闘争」である

人間は元来 統制の取れない自然状態においては
他者との衝突を避けられない
だからこそ社会と契約し自分の持ちうる自然権を
社会に委譲することで社会全体から自身の自然権を保護しているのだ
という説だ

これは人間は元来悪人である(性悪説)を根拠とし
当時の社会である王政に支配されるのは
その権利を委譲している国民にとっては当たり前だと
主張しているわけである

これに対しロックやルソーは
性善説を取り自然状態における人間は
他者と争うことなく協力を要請する
そのためには両者の自然権の一部を
預けあう必要あると説いている

人間が集まり構成されている社会は
それぞれが契約を行うことで形成され
そのための供託として自然権を委譲する

それは放棄したのではなく
すべての自然権をその社会の中で維持するための
切り分けなのであって手段の一つである

だからこそ委譲された社会を構成するものに
抵抗・抗議することもまた認められるとしている

こうした考えが流布したことが
アメリカ独立戦争やフランス革命に
強く影響を与えることになったのである

ロックとルソーの違いは
ロックが自然権の一部(財産権)を委託することで
国家を形成すると考え
間接民主制を主張したのに対し
ルソーは自然権は分割できず
すべてを譲渡して国家は成立すると考え
国家を形成する一般意思がそれを承認するとした直接民主制を説いた

どの考え方も国家という漠然としたものを
いかに説明するかという過程で流布したものである

確かに文明が醸成した昨今で
自然状態を定義するのは不可能であるし
なぜ国家というものに正当性があるのか?という問いも
現代においては意味をなさないのかもしれない

それほど社会は完成しているし
我々が生まれた時点で手放しているものは少なくないからである

人間が生まれ
ある程度の学習や経験を経て
この疑問に辿り着いた時
すでに自分達の手から自然権などというものは
なくなっていると気が付くだけである

では我々はすでに出来上がってしまっている
この社会の中で自身の自然権や国家の正当性について
どのように理解すれば良いのだろうか?

自然権というものが存在するかどうか
自然状態というものが存在しない以上
考える必要はなく
国家・社会の集合体である世界が認める
基本的人権がそれに取って代わる

基本的人権はどの国家・社会であっても
尊重されねばならない
国家は帰属する国民の集合体であるから
国民の意思を反映せねばならない

では現実はどうか?
帰属する国民はあくまでも人間個人である
寿命は先進国で80歳程度
途上国では50歳程度となる
国家は古い国では何千年も存続し続ける

その時代で国民の考え方は状況に合わせて変化する
国家はそれを反映させていると言えるのだろうか?

それに国家は一つではない
それぞれの国家では成り立ちも違えば
文化・風習・宗教・立地と
何から何まで違う

そんな国家同士が隣り合って存在するのだ
国民の意思が国家間の関係を構築しているとも考えにくい

ではすでに構築された国家は
変えようのない既成概念となっているのか?

それは違う
今までも国家が転覆し主権が変わり
国家の方向性が180度転換した国家はあった

そのどれもが国家の中の意思が錯誤し
時には指導者が暴走したことに端を発したりしたのだ

国家を形成している人々の考えが
真に同一となることはない
必ず偏りがある

国民の意思を多数決という偏りが残る前提で
決定している以上それは避けられない

ではどうすれば良いのか?

そもそもどうにかする必要性のないものなのだ
少なくとも国家そのものを変えようという意志でもない限り

その道も志した時点で国民の意思を反することを
企図しなければならないわけだから皮肉な話である

我々が真に自然状態に戻ることがあるのだとしたら
その時は国家というコミュニティインフラに頼る必要のない
仮想空間の中か他の惑星への移住という
国家意思の働かない状況しかないだろう

その時
我々は人として互いに手を取り合って
自身の権利をどこまで教授することが出来るのだろうか?

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