戦国その7 中国地方の謀将:毛利元就、隆元、中国太守:輝元 毛利家三代の家臣団と軍団
「毛利の家 鷲の羽(毛利の家紋・鷲の羽根)を次ぐ
脇柱(次男・元就)」 -毛利元就-
足利幕府の変遷
毛利弘元 (1466~1506)治部少輔。豊元の息。弟に元鎮。大内政弘、義興に出仕。1499年「明応の政変」管領「半将軍」・細川政元と、追放された将軍・足利義稙を擁護する主・大内政弘の対立に巻き込まれる。息に興元、元就、元綱、(北)就勝、元氏。娘婿に渋川義正、吉川元経、武田某(信賢?・元綱?)。吉田郡山城主。<毛利豊元の調略で西軍に寝返った武田元綱が娘婿となったのでしょうか。>
○高橋久光 (1460~1521)大九郎。石見の邑智・阿須那・出羽郡、安芸国山県郡の豪族。高橋朝貞の息。弟に清光。大内家家臣。1521年備後三吉討伐に戦死。跡職は孫の興光が継承する。娘婿に毛利興元。息に元光、重光(弘厚)。藤掛、鷲影城主。<先祖の師光は高ノ師泰に仕え武名高い。><1529年に高橋家は、元就により滅亡。>
毛利家「御親類衆」福原・桂・坂・志道・口羽・長屋
毛利惣領家「吉田譜代衆」赤川・飯田・渡辺
毛利興元 (1492~1516)母は福原広俊の娘。高橋久光の娘婿。大内義興に出仕。安芸国吉田荘所領3000貫。1499年弘元の隠居により家督。大内義興に従い上洛軍。親・大内派。安芸の国人衆・高橋久光、平賀弘保、天野興次と同盟し一揆。尼子氏に従う宍戸元源と抗争。息に幸松丸。娘婿に小早川興景、行松正盛、杉原盛重。郡山城主。
▽坂 広時 (*~1522)(桂)。興元家臣。毛利家家老、広秋の息。兄に桂広澄。親大内派。1522年尼子経久の命で毛利元就により誅殺される。息(養子)に広秀。日下津城主。<広秋、広明は親子のようです。>
▽粟屋元貞 (*)毛利家譜代。興元家臣。興元の嫡男・幸松丸の後見人。1518年吉田城留守居。
⇔○高橋元光 (*~1515)久光の息。大内家家臣。1515年三吉氏との合戦に戦死(元就の謀略による戦死とも)。藤掛城主。
×相合元綱 (*~1524)毛利元綱・大江・四郎・少輔。毛利弘元の息。興元・元就の弟。1517年守護・武田元繁との「有田の合戦」に武功。親・尼子派。1524年尼子家の亀井秀綱の調略で、重臣の坂広秀・渡辺勝に毛利家督に擁立される。子息は備後江田城主・敷田元範。船山城主。<毛利元就の血を分けたライバル。織田信長と弟・信勝との間柄とそっくりです(涙。>
▽坂 広秀 (*~1524)(桂)。毛利家家老、坂広明の息。坂広時の養子。1522年尼子経久の命で坂広時が誅殺され家督相続。親・尼子派。相合元綱重臣。1524年家督を巡り元綱を擁立、元就と対立し誅殺される。一門の桂広澄も連座し自害。跡職は志道元貞が継承。一門の坂元祐は平賀氏の下で養育される。
▽渡辺 勝 (*~1524)親・尼子派。相合元綱重臣。1524年家督を巡り元綱を擁立、元就と対立し誅殺される。<源氏譜代の郎党、渡辺氏の末裔。>
⇔高橋興光 (1503~1529)重光の息。弟に忠光。1515年叔父・元光の戦死により家督。大内義興に従う。1527尼子方に転じ、佐波・赤穴氏と結ぶ。大内方の元就と敵対し松尾城主・高橋重光が討たれる。毛利氏の支援を得た高橋盛光の謀反により戦死。のち盛光は元就に討たれ高橋氏は滅亡する。藤掛城主。<縁戚に石見豪族の本城常光。>
<毛利元就の家臣団と軍団>
毛利輝元(1550~1580年頃)世代は青文字。 赤文字は敵対者。
▲毛利元就 (1497~1571)大江・次郎・少輔・右馬頭・陸奥守。毛利弘元の息。母は福原広俊の娘。毛利興元の弟。吉川元経の妹婿(国経の娘)。安芸国吉田の地頭。多治比猿掛城主。1517年「有田の合戦」に武田元繁を討つ。1523年甥・幸松丸の死去により家督。1524年実弟・元綱を誅殺。1525~28年大内義興の尼子征伐。1528年大内義隆、大内家家督。尼子晴久(詮久)の配下から1537年大内義隆の配下に転ずる。1541年「郡山城籠城戦」にて尼子氏を撃退。1543年「月山富田城攻囲」に従軍。井上与党30数名を誅殺し家中を支配。吉川・小早川家を傘下に収め勢力を拡大する。1551年大内義隆、陶氏の反乱により死去。1552年大友晴英(大内義長)、大内家家督。1555年に大内家の元執事・陶晴賢を「厳島の合戦」で破り、周防・長門を治める。1562年以降、大森銀山より毎年銀5000枚毛利家に運上される。出雲侵攻。1563年嫡男・隆元の死去。以降、孫の輝元を後見。1566年11月尼子義久は降服。吉田郡山城主。<高橋、坂、渡辺、井上家を次々に打倒。>
↓▽志道広良 (1467~1557)坂広良。毛利一門。元良の息。毛利家宿老。叔父に(坂)広時、(桂)広明、(光永)秀時。1516年本家の坂広秋・広明親子、高橋久光・毛利元就とともに、毛利興元の嫡子・幸松丸の後見人。弟に口羽通良。毛利元就の後見人。1523年元就家督相続要請の宿老15名のひとり。息に大蔵少輔(*某)、就良、広昌(坂元貞)、元親。<長男・大蔵少輔は坂氏の反乱に関連し粛清されたか。>
福原広俊 (*~1557)左近允・下総守・出羽守。毛利家宿老。息に貞俊、元正(吉川家老)。娘婿に桂元澄、口羽通良、和智誠春、天野隆重、杉重良。鈴尾城主。<母系の頼れる縁戚。>
⇔*吉川国経 (*)妹婿に尼子経久、娘婿に毛利元就。縁戚関係により元就は一時尼子陣営。元就の家督相続を後援。安芸国山県郡大朝(小倉山)城主。
毛利隆元 (1523~1563)大江・(吉川)・少輔太郎・備中守・大膳大夫。母は吉川国経の娘、元就嫡男。1537年から大内義隆のもとで人質生活。1540年まで山口、その後安芸に戻り家督。1543年「月山富田城攻囲」に従軍。1555年からの毛利家の独立に活躍。1560年・備中、長門・周防の守護。1561年九州遠征軍を率いる。1563年「出雲出征」の父・元就の尼子討伐の加勢に動く最中に和智氏のもとで急死。41歳。吉田郡山城主。<ひたすら人質生活の苦労人さんです(涙。><周防・長門侵攻、九州豊前・筑前侵攻に次期当主・隆元の軍団が活躍。出雲攻略に向う途中で急死しした為、軍団の崩壊。>
▽毛利輝元 (1553~1625)大江・幸鶴丸・少輔太郎・右衛門督・右馬頭。母は内藤興盛の娘、隆元嫡男。1563年父・隆元は九州遠征の帰路に死去。1565年毛利隆元のもとで出雲に初陣。1570年出雲の尼子勝久攻めに総大将。1571年祖父・元就の死去。<父・隆元さんが苦労したぶん大事にされて温室育ちかもしれません。><1578年上月城攻めに「台無し大筒」を導入。大力の男2人でぎりぎり持ちあげられるサイズ。毛利軍は最新鋭の武器を積極的に導入していた様子です。>
<元就の一門(血縁)衆>
1551年大内義隆自害後独立、戦国大名化。
○家臣ではなく同盟者。 ▽陪臣。
⇔ ○吉川元春 (1530~1586)毛利元春。元就の次男。安芸山県郡大朝新庄の豪族。吉川興経を殺害し、母の実家・吉川家を相続。熊谷信直の娘婿。1541年尼子氏の攻撃を受け、家老・井上元兼の制止を払い11歳で初陣。山陰地方の重鎮となる。1563年兄・隆元の死去。1570年尼子勝久の蜂起に石見衆を率いて出雲出陣、「布部山の合戦」に勝利。1571年父・元就の死去。1582年備中高松城の後詰に参陣。1584年に隠居。羽柴秀吉との対立が深く、九州出陣に従うが豊前小倉で急死。57歳。
⇔ ○小早川隆景 (1533~1597)毛利隆景。元就の三男。1544年竹原の小早川興景の跡を相続。豊田郡沼田の小早川正平の跡を相続。1547年神辺城攻略に初陣。1555年「厳島の合戦」に能島・来島水軍を調略。1563年兄・隆元の死去。1570年尼子勝久の蜂起に備後衆を率いて出雲出陣、「布部山の合戦」に勝利。1571年父・元就の死去。1575年石山本願寺の救援で、織田家と争う。1582年備中高松城の後詰に参陣。1593年朝鮮で李如松を破る。弟・秀包を養子としていたが、羽柴秀秋に譲る。三原城主。65歳。
⇔○宍戸隆家 (1518~1592)(宇都宮)・弥三郎・左衛門・雅楽頭・安芸守。安芸国人・準毛利一門。宍戸元源の孫。宍戸元家(元良)の息、妻は毛利元就の娘。1533年から毛利元就と同盟。備後北部支配。1540・41年の「吉田郡山城の攻防戦」に尼子晴久を撃破。主に吉川元春を補佐して山陰方面に出陣する。1543年「月山富田城攻囲」に従軍。1563年従兄弟・隆元の死去。1570年尼子勝久の蜂起に備中衆を率いて出雲出陣、「布部山の合戦」に勝利。1571年義父・元就の死去。1575年上月尼子攻め(小早川勢)。1582年備中高松城の後詰に参陣。息に元秀。<水軍の宍戸元親は縁戚か。>
▽末兼隆忠 (*~1534)(宍戸)・弥四郎。元源の息。母は坂広明の娘。元家の弟。宍戸一門衆。室は長和家俊の娘。元・大内家家臣。上甲田末兼を領する。1534年宍戸隆家に謀反の疑いで誅殺される。養子に知綱。娘婿に宍戸知綱、井原元良。
▽深瀬隆兼 (*)(宍戸)・弾正忠。元源の弟。元家は甥。息に家城。孫に家良。1540年尼子氏の吉田郡山攻略軍を撃退する軍功。息に家兼、直良。祝屋城主。弟・家俊を養子とする。
▽宍戸家俊 (*)又四郎・司箭院興仙。元源の弟。宍戸一門衆に庄原、中所、三田谷氏あり。一時、兄・深瀬隆兼の養子。出奔し細川政元に近侍。修験道に入り「司箭院興仙」。跡職は家兼が継承する。<細川家とのパイプ。謎の多い人物です。隆家の息・元秀の幽閉にも何か関連があるのでしょうか。>
▽佐々部元祐 (1509~1593)美作守・若狭守・家祐。宍戸家家臣。讃岐に渡海し「元吉城攻撃」に軍功。
<元就の一門(血縁)衆>
二宮就辰 (1546~1607)(矢田)・毛利就辰。毛利元就の庶子、四男。母は矢田元通の娘。二宮春久に養育される。毛利元就の信頼厚く、準一門として重用される。土木・築城の才がある。1578年輝元側近。弘元の菩提寺のある吉田城原籠に邸宅。
穂井田元清 (1551~1597)毛利元清・穂田・四郎・治部大輔・伊予守。元就の息。母は乃美氏。備中国人、穂井田元資の養子。村上通康の娘婿。桂元澄の死後、桜尾城主。1563年兄・隆元の死去。1571年備中猿掛城主、備前の浦上宗景を撃退。1575年上月尼子攻め(小早川勢)。山陽方面の遊撃軍団長。1582年備中高松城の後詰に参陣。土木・築城の才があり、広島城の普請奉行。1592年宗家輝元に代わり朝鮮に渡る。47歳。長府毛利の祖。息に秀元。娘婿に熊谷直貞、宍戸広匡、毛利元鎮。
▽佐藤元正 (*)毛利家譜代、吉田城中河原に邸宅を持つ。穂田元清の後見人。<織田家にも美濃豪族の佐藤氏あり。>
天野元政 (1559~1610)毛利元政・六郎左衛門・少輔・掃部頭・讃岐守。元就の息(7男・七男)。安芸国人、天野隆綱(元定の養子とも)の養子。1563年兄・隆元の死去。1575年上月尼子攻め(小早川勢)に軍功。1582年備中高松城の後詰に参陣。51歳。右田毛利氏の祖。<天野元明とともに高松在陣。>
椙杜元秋 (1552~1585)毛利元秋・天野・富田・少輔十郎。元就の息(5男・五男)。周防国人、椙杜隆康の養子。1563年兄・隆元の死去。1570年出雲国月山富田城主。天野隆重に後見される。出雲を支配し山陰方面の遊撃軍団長。1575年上月尼子攻め(吉川勢)。34歳。跡職は弟・末次元康が継承。
出羽元倶 (1555~1571)毛利元倶・孫四郎。元就の息(6男・六男)。石見国人・出羽元祐の養子。17歳で死去。二羽山城主。
末次元康 (1560~1601)毛利元康・天野・富田・少輔七郎・兵部大輔・大蔵大輔。元就の(8男・八男)。元秋・元倶と同母。1575年上月尼子攻め(吉川勢)。1585年兄・元秋の跡職をつぎ出雲支配。対織田戦に備え備後神辺城に派遣される。42歳。厚狭毛利氏の祖。
▽宍戸元秀 (1547~1597)(毛利元好)・弥三郎・左衛門佐・左衛門尉・雅楽頭・元孝。室は内藤興盛の娘。安芸国人・準毛利一門。宍戸隆家の息。1575年上月尼子攻め(小早川勢)。備中鬼身城主。病弱の為に早くに廃嫡される。1592年息の元続が跡職を継承。息に元続、(内藤)元盛、元真、孝春、景好、元可。娘婿に三沢為虎、小早川(豊臣)秀秋。<若くして幽閉されていたとも。謎の多い人物ですが、子沢山。>
▼井原元良 (*~1602)小六・彦右衛門・弾正忠。井原元造の息。母は伊賀家久の娘。室は口羽通良の娘。後妻に末兼隆忠の娘。宍戸一門衆。安芸鍋谷城主。息に元尚。
▽佐々部元光 (1550~1593)美濃守・家茂。宍戸家家臣。朝鮮征伐に従軍し客死。
小早川秀包 (1567~1601)毛利元総・藤四郎・元総。毛利元就の九男。備後太田家の養子。のち小早川隆景の養子。大友義鎮の娘婿。秀吉との講和のため人質として大坂に送られる。35歳。吉敷毛利氏の祖。
⇔▽白井景俊 (1537~*)兵庫頭。元総の備後太田家入りに付家老。のち桂広繁とともに小早川家の旗頭。
敷名元範 (*)毛利元範。備後敷名郷の領主。反逆の弟・相合元綱の息。元就の甥。隆元の従兄弟。旗返城主。
黄色の範囲が毛利家の勢力圏。山陰・山陽・南海道の諸豪族。
毛利元就の家臣団と軍団
<元就・隆元の三家老(隆元・輝元の四人衆)> 1551年大内義隆自害後独立、戦国大名化。
(元就・隆元の三家老)桂元重・福原貞俊・口羽通良。
(隆元・輝元の四人衆)吉川元春・小早川隆景の二人と、
その補佐役の宿老二人 福原貞俊・口羽通良。
○福原貞俊 (1512~1593)弥五郎・左近・出羽守。毛利一門。福原広俊(*~1557)の息、重臣筆頭。叔父に元勝。桂元澄、口羽通良、和智誠春、天野隆重、杉重良は義兄弟。小早川隆景補佐。山陽地方担当。対尼子戦に三吉氏を救援し、牛尾幸清に敗れるも軍功。1565年「月山富田城攻略戦」に輝元軍。尼子義久の降服に三老のひとりとして起請文に署名。1571年主君・毛利元就の死去。後世の毛利21将のひとり。娘婿に三吉隆経、平賀広相、熊谷元実。弟に吉川家老の福原(宮荘)元正。息に元俊、孫に広俊。82歳。<創業からの長寿の将。><祖父も名が貞俊なのでややこしい。>
○口羽通良 (1512*1513~1582)志道通良・刑部大輔・下野守。毛利一門。志道元良の息(次男)。広良の弟。福原広俊の娘婿。1529年以降、石見国口羽城主。吉川元春補佐。山陰地方担当。1565年「月山富田城攻略戦」に輝元軍。尼子義久の降服に三老のひとりとして起請文に署名。1557年志道広良の死去後その跡職を継承。石見銀山を経営する。1571年主君・毛利元就の死去。後世の毛利21将のひとり。70歳。次男・春吉が毛利家重臣となる。<創業からの長寿の将。吉川家臣に口羽通平。>
↓○桂 元重 (*)左衛門・能登守。毛利一門。桂家嫡流。父は桂元延。元澄の孫。毛利隆元の側近。1563年毛利隆元に従い九州計略の先陣、出雲遠征の加勢の為撤兵、帰路に隆元急死。1565年「月山富田城攻略戦」に輝元軍。尼子義久の降服に三老のひとりとして起請文に署名。1569年坂元祐・浦宗勝と筑前経営の三奉行。立花城主として九州経営。1570年大友軍の攻囲に撤退。息に元相。<桂元澄の嫡男・元延の事績が不明です。代々「左衛門」と称する家系で、尼子氏署名の左衛門が孫の元重とかかれている書が多いのですが、毛利の代表的な宿老と若い元重が署名してるというのが変な感じです。本当は父・元延と事績が混乱しているのでしょうか。以降、九州計略に活躍しますが1570年の敗退後の事績が不明です。敗戦の責任をとって失脚でもしたのでしょうか。>
-毛利元就奉行人-
井上元貞 (*~1525)兵庫助。光貞の弟。1523年元就家督相続要請の宿老15名のひとり。のち尼子家人質。毛利家が大内家に恭順し、月山富田城脱出の際に戦死。
光永秀時 (*~1525)坂 秀時・新四郎・三郎兵衛・下総守。坂広秋の息。兄弟に広明、広時、(志道)広良。尼子家人質。毛利家が大内家に恭順し、月山富田城脱出の際に戦死。息に元方。
<元就奉行人(四奉行)>
井上就重・児玉就兼・桂元忠(五奉行兼任)・児玉就忠(五奉行兼任)。
井上就重 (*)新三郎・四郎兵衛・但馬守。光兼の弟・井上光家の息。1550年の一族粛清から免れる。元就の側近として忠節を尽くす。元就により重用される。旗本衆の軍事行動の指揮、検使を務める。<粛清を免れた井上春忠、井上利宅は小早川家臣。>
児玉就兼 (*~1560)四郎兵衛・豊前守。児玉家嫡流、児玉元実の息(嫡男)。就忠の兄。1507年「高田原の合戦」に武功、毛利興元に感状を与えられる。
<隆元奉行人(五奉行)>(1550~1560頃)
児玉就忠 (1506~1562)小次郎・三郎右衛門。五奉行のひとり(奉行期間1550~1559)元就奉行人を兼任。児玉元実(就実)の次男、家行の養子。対尼子戦に三吉氏を救援し牛尾幸清に敗れるも軍功。後世の毛利21将のひとり。56歳。嫡子・元良が家督継承。<赤川元保と対立。>
桂 元忠 (1499~1569*1570)左衛門太郎・左衛門大夫・上総介。五奉行のひとり(奉行期間1550~1570)毛利一門。桂広澄の息(次男)。元澄の弟。元就奉行人を兼任。隆元と元就の連絡係りを務める。息に就正、隆正、就忠。<赤川元保と対立。>
○国司元相 (1492~1592)助六・右京亮・飛騨守。五奉行のひとり(奉行期間1550~1566)国司有相の息。1523年元就家督相続要請の宿老15名のひとり。毛利隆元の守役。1540・14年「吉田郡山城の攻防戦」に武田信実を破る。1542・43年の「富田月山城攻囲」に従軍。負傷する。1564年石見松山城攻略に一番槍。1565年に隠居。後世の毛利21将のひとり。99歳。息に元武。<創業からの長寿の将。>
粟屋元親 (*~1562)弥次郎・右京亮。五奉行のひとり(奉行期間1550~1559)粟屋元秀の孫(元秀は後世の毛利21将のひとり)、元宗(元忠)の息。1516年父の戦死により家督。毛利隆元の重臣。1540・41年尼子軍に攻囲された「吉田郡山の合戦」に武功。1556年陶家討伐の「防長侵攻」に活躍する。家督は息・元勝(元信)が継承する。元親も後世の毛利21将のひとり。息に元著(早世する)、元信(家督)、三男に水軍の将・元如。元通(備中旗頭)は従兄弟。
赤川元保 (*~1567)左京亮・元助。赤川房信の息(4男)。五奉行のひとり(奉行期間1550~1565)就秀の弟。1523年元就家督相続要請の宿老15名のひとり。毛利隆元の側近・後見人。1561年九州遠征軍。1563年九州からの帰途に和智誠春の饗応の後、隆元が急死、責任を取らされ蟄居。1567年自害する。跡職は兄・就秀の次男、元通が相続する。後世の毛利21将のひとり。<児玉就忠と桂元忠との対立が根元にあったとも。><同じような立場の武田義信の後見人・飯富兵部と印象が重なります。>
隆元の御由緒家
↓和智誠春 (*~1569)左近大夫・左衛門尉。備後の豪族。豊郷の息。弟に湯谷元豊。福原広俊の娘婿。1563年毛利隆元が和智氏訪問の際に急死。厳島に蟄居される。1569年熊谷就政、児玉元村により誅殺される。息に元郷。
▽湯谷元豊 (*)備後の豪族。和智誠春の弟。兄に連座し厳島に蟄居される。
毛利隆元の軍団
(周防・長門侵攻軍、九州遠征軍)
坂・渡辺氏の復権
(毛利隆元の側近) 1555~1563年にかけて周防・長門で編成され、北九州方面に出陣。
↓○国司就信 (*~1592)四郎三郎・雅楽允・対馬守・友甫。1524年元就を烏帽子親に元服する。毛利隆元の側近。1537年大内家の人質・毛利隆元の供衆として山口滞在。1569年「九州侵攻」に裁判奉行。1570年から防長の段銭奉行。1571年主君・毛利元就の死去。1571年長門日山城の普請奉行。1583年大内義隆33周忌の奉行。息に国司元信。
渡辺 長 (1533~1612)小三郎・石見守・飛騨守。1543年出雲遠征で毛利元就の身代わりとなって討死した、渡辺通の息。毛利隆元の側近。1548年「備後神辺城攻略」。1551年「安芸高屋城攻略」。1552年「備後志切城攻略」。1555年安芸「厳島の合戦」。1555年「矢野城攻略戦」に坂元祐と先陣を競い敗れるという。1561年豊前「門司表の合戦」に従軍。1571年主君・毛利元就の死去。79歳。後世の毛利21将のひとり。
↓○坂 元祐 (*~1575)(平賀)・五左衛門・保良。毛利一門。1523年一族の広秀(実父とも)が誅殺され、平賀隆宗のもとで養育される。1550年頃毛利家に帰参。毛利隆元の側近。1555年「矢野城攻略戦」に渡辺長と戦陣を競うという。1555年周防山代衆の旗頭、周防高森城主。高森城普請奉行。1556年長門、出雲に遠征。1562年九州計略の先陣。1563年毛利隆元に従い北九州に出陣。1568年「豊前松山攻略」。1569年立花城にて筑前経営の三奉行(桂・浦・坂)のひとり。1570年大友軍の攻勢により降服開城。1571年主君・毛利元就の死去。
周防・長門侵攻軍(九州遠征軍)
(毛利隆元の軍団・安芸譜代衆)
↓▽粟屋元辰 (*)毛利隆元家臣。1569年高橋鎮種の攻撃から、毛利家の筑前撤退の奉行を勤め、麻生・宗像氏の協力で長門への退却を成功させる軍功。のち1582年杉原景盛討伐後の伯耆佐陀城主。<吉川元長の与力となるか。>
▽飯田隆朝 (*)仁保隆慰の与力。1559年岩武良秀とともに豊前にて門司城の後詰城、沼城主。大友軍の攻撃に敗走。
▽岩武良秀 (*)対馬守。仁保隆慰の与力。1559年飯田隆朝とともに豊前にて門司城の後詰城、沼城主。大友軍の攻撃に敗走。
⇔▽赤川元徳 (*~1561)又右衛門・元吉。冷泉元豊、桂 元親とともに九州門司在番の三将のひとり。1561年戸次鑑連(立花道雪)の門司城攻撃を迎え撃ち「大里表の合戦」に戦死。門司城番。
↓▽赤川元久 (*~1563)赤川房信の息(5男)。赤川元光、就秀、元保の弟。隆元の臣。1563年毛利隆元急死の責任をとり自害。
▽兼重元宣 (*)下総守。兼重元鎮の息。父・元鎮は吉川家家臣の笠間家養子から毛利直参に復帰。毛利隆元家臣。1563年毛利隆元に従い北九州に出陣。息に元続。
▽財満忠久 (*~1569)越前守。隆久の息。毛利隆元家臣。1563年毛利隆元に従い北九州に出陣。筑前立花山城にて戦死。<水軍の財満就久は一門か。>
▽八幡原元直 (*)六郎右衛門尉・豊後守。毛利隆元家臣。のち小早川隆景の家臣。
⇔↓○桂 元親 (*~1562)元澄の息(3男)。毛利隆元家臣。「山代一揆鎮圧」に軍功。長門「且山代攻撃」に軍功。「伊予攻略」に従軍。豊前国司城を冷泉元豊、赤川元吉(元徳)とともに守備するが、大友氏の立花道雪により落城、戦死する。
↓佐藤元実 (*~1571)又右衛門尉。隆元の側近。1568年九州遠征に従軍。筑前国馬見城主。のち長門且山城主。<穂田元清の後見人に佐藤元正あり。>
九州遠征軍
(隆元の軍団・外様衆)
↓○仁保隆慰 (*)右衛門大輔・常陸介。元・大内家家臣。大内義隆・義長の奉行。毛利隆元の側近。大庭賢兼とともに周防奉行。1558年九州豊前国門司城主。1560年大友義鎮の攻撃を受け退去。
▽冷泉元豊 (1537~1561)(平賀)。元・大内家家臣。隆豊の息。弟に元満。坂元祐とともに平賀家で養育される。毛利家水軍衆。1561年戸次鑑連の門司城攻撃を迎え撃ち「大里表の合戦」に戦死。門司城番。弟の元満が跡職継承。
▽伊香賀房直 (*~1569)1569年筑前国にて「立花山城の攻防」に戦死。<陶晴賢の側近で介錯を務めた武将に伊香賀房明あり。一門か。>
⇔安国寺恵瓊 (1537~1600)武田。安芸守護家。武田信実の息。安国事の僧侶。毛利隆元に出仕。外交僧として重用される。<先祖の仇、毛利氏を内から倒そうとしているような気がします。>
↓小倉元悦 (*)新四郎・木工助・越中守・元実。近江出身。毛利元就に抜擢され、隆元の側近として活躍。<小川元政とともに近江出身。>
(毛利家九州三奉行)1569~1571年
↓○桂 元重 (*)左衛門・能登守。毛利一門。桂家嫡流。元澄の孫、父・元延。毛利隆元の側近。1563年毛利隆元に従い九州計略の先陣、出雲遠征の加勢の為撤兵、帰路に隆元急死。1565年「月山富田城攻略戦」に輝元軍。尼子義久の降服に三老のひとりとして起請文に署名。1569年坂元祐・浦宗勝と筑前経営の三奉行。立花城主として九州経営。1570年大友軍の攻囲に撤退。<桂元澄の嫡男・元延の事績が不明です。代々「左衛門」と称する家系で、尼子氏署名の左衛門が孫の元重とかかれている書が多いのですが、毛利の代表的な宿老と若い元重が署名してるというのが変な感じです。本当は父・元延と混乱しているのでしょうか。以降、九州計略に活躍しますが1570年の敗退後の事績が不明です。敗戦の責任をとって失脚でもしたのでしょうか。>
↓○乃美宗勝 (1527~1592)浦宗勝・新四郎・兵部丞・備前守。浦賢勝の息、沼田小早川一門。1555年「厳島の合戦」に能島・来島水軍を調略。1560年豊前門司城奪回に出陣。1561年(大友方ポルトガル船の艦砲射撃)大友水軍を破る。門司城の攻防戦で大友方の伊美弾正と一騎打ちに勝利。1569~1570年九州筑前立花城に駐屯。1575年上月尼子攻め、水軍衆(小早川勢)。1576年第一次「木津川河口の海戦」に参加し織田水軍を撃破。讃岐出兵戦。水軍衆。高山城主。安芸国賀儀城主。66歳。
↓○坂 元祐 (*~1575)五左衛門・保良。毛利一門。1523年一族の広秀(実父とも)が誅殺され、平賀隆宗のもとで冷泉兄弟とともに養育される。1550年頃毛利家に帰参。毛利隆元の側近。1555年「矢野城攻略戦」に渡辺長と戦陣を競うという。1555年周防山代衆の旗頭、周防高森城主。高森城普請奉行。1556年長門、出雲に遠征。1562年九州計略の先陣。1563年毛利隆元に従い北九州に出陣。1568年「豊前松山攻略」。1569年立花城にて筑前経営の三奉行(桂・浦・坂)のひとり。1570年大友軍の攻勢により降服開城。1571年主君・毛利元就の死去。
<戦国毛利家三代の譜代家老衆>
(井上党)
△井上光兼 (*)新三郎・河内守。井上勝光の息。井上家惣領職。毛利弘元に出仕。弟に元盛、光俊、光家、就正。幼少時の毛利元就を後見。1550年誅殺を免れる。息に元光、養子に弟・元兼。<信濃源氏の系譜。1517年に井上党の光政が安芸守護家の武田元繁を討つ軍功。>
井上元吉 (*)新左衛門尉。元就家督相続要請の宿老15名のひとり。1532年粟屋元国と共に吉田城尾崎郭の在番。
井上元兼 (1486~1550)源太郎・弥坂兵衛・河内守。井上勝光の息(次男)。兄・光兼に替わり井上家惣領。弟に井上元盛。元盛が毛利元就から猿掛城を奪う。1523年元就家督相続要請の宿老15名のひとり。元盛他一族の元貞、元吉、就在も家老職として署名(15人中5名が井上)。1525年一門の井上元貞は尼子家の人質となり、毛利家謀反の際に犠牲となる。1550年専横を嫌われ元就に誅殺される。後世の毛利21将のひとり。弟・元盛は元就の守役。65歳。息に就兼、就澄。安芸天神山城主。
▽井上元盛 (*~1550)新次郎・源三郎・中務丞。毛利興元の重臣。元就の後見人。多治比領を横領し、元就により粛清される。
▼井上就兼 (*~1550)井上家惣領。井上元兼の嫡子。1550年桂就延により郡山城で誅殺される。<実質的に元就のライバルか。>
▽井上就澄 (*~1550)井上元兼の息(次男)。1550年福原・桂氏の軍勢に襲撃され戦死。
▽井上元景 (*~1550)弥四郎・与三右衛門尉・元有。井上光景の弟。1523年井上新左衛門・元吉らとともに元就家督相続要請の宿老15名のひとり。
井上元光 (1488~1567)(毛利)・新三郎・采女正・玄蕃允・右衛門大夫・但馬守・元在。光兼の次男、元兼の弟。毛利弘元の娘婿。毛利元就の妹婿。井上一族の粛清を免れる。1550年以降、元就の命により井上惣領家督。安芸高ノ峯城主。79歳。
<毛利軍の東征> 赤文字は派遣先で戦死した武将。
<譜代家老衆 第一世代> 毛利元就の世代(1497~*)
↑北 就勝 (*~1557)常楽寺・毛利就勝・式部少輔。元就の弟。弘元の息(4男)。常楽寺の元僧侶。還俗し安芸高橋家の庶流、北氏を家督相続。元春を一時養子とする。
↑▲志道広良 (1467~1557)坂。毛利一門。元良の息。毛利家宿老。叔父に(坂)広時、(桂)広明、(光永)秀時。1516年本家の坂広秋・広明親子、高橋久光・毛利元就とともに、毛利興元の嫡子・幸松丸の後見人。弟に口羽通良。毛利元就の後見人。1523年元就家督相続要請の宿老15名のひとり。息に大蔵少輔*、就良、広昌(坂元貞)、元親。
志道就良 (*)広良の息。大内領制圧後に周防国に所領を与えられる。兄に大蔵少輔。兄の息・元保が惣領職継承。弟に式部大輔・広昌、宮内少輔・元親。
桂 元澄 (1500~1569)(坂)・左衛門・能登守。桂広澄の息。弟に元忠、就延、保和。福原広俊の娘婿。福原貞俊、児玉十郎と軍兵を率いる侍大将。1523年元就家督相続要請の宿老15名のひとり。1550年井上元兼を誅殺する。1554安芸桜尾城主となり「厳島の合戦」の勝利に貢献する。後世の毛利21将のひとり。70歳。息に元延、元貞、元親、景信、広繁、元盛。
▽桂 元信 (*)源右衛門・紀伊守・就延。桂広澄の三男。兄に元澄、元忠。阿曽沼広秀の娘婿。1550年元就の命で井上就兼を討ち取る。井上一族誅殺後の起請文に署名。1570年出雲鴟ノ巣城主。1570年尼子勝久との出雲「布部山の合戦」に輝元軍。弟に美作守・保和。
赤川就秀 (*)又四郎・十郎左衛門・筑前守・元信。赤川房信の息。井上元兼の娘婿。兄・元光の戦死により家督。1523年元就家督相続要請の宿老15名のひとり。1524年尼子家に人質となるが、1525年尼子から離反する事となり出雲から脱出。1542・43年の「富田月山城攻囲」に従軍。出雲の案内役(毛利軍の先鋒を勤めるか)。息に元秀。<1561年九州にて、赤川元徳が門司城表で戦死。>
▲粟屋元秀 (*)弥三郎・縫殿允・備前守。粟屋元国(惣領)の一門。粟屋分家。1507年毛利興元の京都出陣に従う。1517年武田元繁との「有田の合戦」に軍功。1523年元就家督相続要請の宿老15名のひとり。元国の命で毛利元就の家督相続の許可を将軍に直訴。大内家の陶興房の要請で毛利家を大内方に転じさせる。後世の毛利21将のひとり。
△粟屋元忠 (*)元宗。粟屋備前守・元秀の息。息に五奉行の粟屋元親と、粟屋元通。<親、子、孫、代々、備前守か。>
▲粟屋元国 (*~1544)掃部介。粟屋元好の息。粟屋家惣領職。弟に元方、元重、就幸、元房。一門の元秀に元就相続の将軍直訴の為上洛させる。1532年井上元吉とともに吉田城尾崎郭の在番。1544年備後「布野の合戦」に戦死。息に渡辺就国。
粟屋元堅 (*~1544)1544年備後「布野の合戦」に戦死。息・元光(1542~1570)は出雲にて戦死。
粟屋元良 (*~1544)元喜。粟屋元利流・庶流家。粟屋元直の息。1540年郡山城から出撃し湯原宗綱を討つ軍功。1544年備後「布野の合戦」に戦死。息に*元信、就幸、光真。孫に就恒。<*元信の名は粟屋元種の息子、粟屋元親の息子が名乗るので三人存在する。>
粟屋春俊 (*~1555)又二郎。1555年「厳島の合戦」に戦死。<陶の武将・弘中隆兼の反撃に戦死するようです。陶家も一矢報いてたのですね。>
▲飯田元親 (*~1535)児玉・四郎次郎。児玉元良の息(次男)。水軍の将・飯田元著とは別系。1517年武田元繁との「有田の合戦」に軍功。1523年元就家督相続要請の宿老15名のひとり。後世の毛利21将のひとり。家督は弟・元重が相続する。
▽飯田元重 (*)児玉・与一・左衛門尉・伯耆守。飯田元親の弟。兄の死により家督継承。1540・41年「郡山城籠城戦」に軍功。1556年石見の佐波興連への使者。
渡辺 通 (*~1543)太郎左衛門。渡辺勝の息。元就弟・相合元綱を擁立し父が誅殺され、山内直通に養育される。1543年「出雲遠征」からの敗走中、毛利元就の影武者として戦死。
↓岡 光良 (*)宗左衛門尉。1540・41年「郡山城籠城戦」に軍功。周防平定戦に杉隆泰からの人質を預かる。のち石見国の都賀行城城主。
↓児玉就秋 (*)弥七郎・木工丞・若狭守。広家の息。児玉元実の弟(5男)。兄・児玉元為の養子。1519年元服。毛利元就の側近。1535年備後三吉家の「上里城攻略」。1540年「平賀興貞討伐戦」に従軍。1555年吉川元春とともに「防長出征」。石見方面を攻略。安芸飯山城の普請奉行。吉川元春と元就との連絡役を務める。
児玉元保 (*~1542)広家の息(次男)。児玉元実の弟。1516年宍戸氏の「五龍城攻撃」に軍功。武田元繁との抗争に軍功。1542年尼子家との抗争に戦死。
(外様国人から直参)
↓○天野隆重 (1502~1582)安芸国人、財崎城主。母は福原広俊の娘、妻は福原貞俊の娘。天野隆綱とは別系。はじめ大内氏家臣として九州筑前国に所領。1561年豊前松山城主。1567年より出雲国の支配を補佐。1568年尼子勝久を撃退する。1570年尼子勝久との出雲「布部山の合戦」に吉川・小早川軍。1571年主君・毛利元就の死去。1575年上月尼子攻め(吉川勢)。1575年「熊見川の合戦」対羽柴戦。出雲奉行。毛利元康の後見人として出雲支配の重鎮。後世の毛利21将のひとり。出雲高津場城主。82歳。息に元明、元信。
↓○香川光景 (*)左衛門尉。安芸武田家家老。元景の息。弟に元正、就勝。当初同僚の熊谷氏と対立。主家滅亡後、毛利家に臣従。1543年「月山富田城攻囲」に従軍。1566年三村家親、入江著親とともに山陰伯耆表に派遣される。1569年尼子勝久軍の攻撃に対し美作高田城主、安達信泰の援軍として派遣される。息に川ノ内水軍の将・広景、吉川家家臣の春継。
↓▽香川勝雄 (1515~1569)次右衛門。香川光景の一門(弟とも)。1569年美作高田城の攻防戦で尼子・浮田・三浦連合軍と奮戦し戦死。
↓小川元政 (*)右衛門・兵衛尉。近江出身の浪人。毛利家に出仕。「尼子討伐」に軍功。富田城番。1580年湯原春綱、塩谷元真、福田盛雅とともに美作医王山城の後詰。浮田軍を撃退する。
<譜代家老衆 第二世代> 毛利隆元の世代(1523~*) ・1563年対尼子戦に鉄砲実戦活用
桂 元延 (*)左衛門尉。元澄の息(長男)。毛利隆元家臣。息に毛利隆元の側近となる桂元重。<代々、左衛門尉を継承するためややこしいことに・・。>
桂 元貞 (*)左近大夫。元澄の息(次男)。毛利隆元家臣。<志道広良の息・元貞が桂(坂)広秀の跡職を継承して坂元貞と名乗りますが、ややこしい関係。>
⇔↑↓○桂 元親 (*~1562)元澄の息(3男)。毛利隆元家臣。「山代一揆鎮圧」に軍功。長門「且山代攻撃」に軍功。「伊予攻略」に従軍。豊前門司城在番。冷泉元豊、赤川元吉(元徳)とともに、立花道雪に敗北し討たれる。
↓○桂 景信 (*)元澄の息(4男)。小早川隆景の付家老。<↓小早川隆景家臣団を参照。>
↓○桂 広繁 (*)民部大輔・入道快友。元澄の息(5男)。兄に元延。織田家の侵攻に対し、上山元忠とともに備中国加茂城主。小早川元総とともに羽柴家に人質。以降、小早川家家臣。白井景俊とともに小早川軍の旗頭。
↓○桂 元盛 (1547~1637)源右衛門尉。元澄の息(6男)。一族・桂元次の跡職を継承。1580年備前勝山城主。
↓○桂 広信 (*)兵部丞。1583年杉 長相、包久景勝とともに伊予渡海。伊予「中野城籠城」に長曾我部軍を撃退。<元澄の息(3男)で兵部丞・元親と同一人物か。>
↓○桂 元将 (*)毛利輝元家臣。「吉和山里一揆」鎮圧に軍功。「厳島の合戦」、「鞍掛城攻撃」、「福屋隆兼征伐」、「富田城攻囲」に軍功。1572備中阿賀郡の一揆を鎮圧。三村元親から軍功を賞される。荒木村重を救援し摂津木津城在番。本願寺後詰軍の将。
児玉就光 (*~1590)左衛門太郎・四郎兵衛・豊前守。児玉家嫡流・児玉就兼の嫡男。1540年「郡山城攻防戦」。1542年の尼子氏との抗争に活躍。1554年安芸「矢野城攻略」、安芸「明石口の合戦」に軍功。1569年周防国の一揆鎮圧に出陣。1571年主君・毛利元就の死去。1572年「毛利氏掟」の奉行衆。息に元房(*~1580)。
児玉元茂 (*~1594)十郎右衛門・越前守。児玉元保の息。父・元保は1542・43年の大内義隆「出雲出征」に戦死。1553年備後「三若城攻略戦」。1554年安芸「明石口の合戦」に軍功。1571年主君・毛利元就の死去。子息・元言。
赤川元秀 (*~1591)又五郎・十郎左衛門・筑前守。井上元盛の娘婿(離縁する)。赤川惣領家、就秀の嫡男。1541年「吉田郡山城の攻防」に軍功。1542・43年の「富田月山城攻囲」に従軍。安芸「矢野の合戦」に軍功。1568年「九州遠征」豊前・筑前に陣場奉行。1570年尼子勝久との出雲「布部山の合戦」に輝元軍。1571年主君・毛利元就の死去。1580年備後福山城主。
赤川元通 (*)赤川惣領家・就秀の次男、元秀の弟。毛利隆元の側近で五奉行のひとりだった叔父・赤川元保の跡職を継承する。
↓○渡辺就国 (*~1593)(粟屋就国)・新右衛門・肥後守。粟屋元好流。粟屋分家。粟屋元国(惣領)の息(3男)。周防国の奉行。従兄弟に粟屋就方、粟屋元種。
↓○粟屋就方 (*~1592)木工允。粟屋元好流。粟屋元重の息。粟屋分家。備後衆旗頭。1554年安芸「明石の合戦」。1555年「矢野の合戦」で先鋒を務める。1563年備中三村元親の元に派遣され、以降備中方面の軍事活動を指導。備後衆を率いて備中を平定する。従兄弟に粟屋元種、渡辺就国。
⇔粟屋元通 (*)弥三郎・縫殿允・備前守。粟屋分家。粟屋元秀の孫。粟屋元宗(元忠)の息。兄弟に五奉行の粟屋元親(*~1562)。1543年近友名衆諸役在番の免除を得る。1548年備後「神辺山城攻略」に従軍。防長平定戦、伊予遠征に軍功。岩国奉行。1572年「毛利氏掟」制定の年寄衆。備中飯山在番、安芸津田・周防岩国衆の旗頭。息に元定。<通称「粟屋縫殿」。>
粟屋元光 (1542~*1570)又右衛門尉。粟屋元堅の息(次男)。出雲国布部にて「三本松の合戦」に戦死。
↓粟屋春高 (*~1581)藤右衛門尉。1581年伯耆国に出陣し「岩倉城攻略戦」に戦死。
↓井上就正 (*~1580)源右衛門・和泉守。井上光兼の息(6男)。三吉氏の娘婿。1539年元就を烏帽子親に元服する。1550年井上一族誅殺から免れる。叔父・井上元盛の旧領を与えられる。1551年安芸「平賀攻撃」に軍功。1569年豊前小倉に検使。1571年主君・毛利元就の死去。出雲新山城の普請奉行。備後衆・湯川元常とともに周防国段銭奉行。1580年備中「加茂の合戦」で子息・元勝が戦死。就正も同年死去する。
↓井上有景 (*)豊後守。備中国の庭瀬(撫川)城主。1582年「庭瀬城籠城戦」にて織田家の羽柴軍の攻撃を撃退。<小早川隆景に討たれた井上元有の息、有景と同一人物か。粛清から免れ出仕するか。>
○口羽春良 (*)毛利一門。口羽通良の息(次男)。兄弟に広通、元可。毛利家重臣。1570年尼子勝久との出雲「布部山の合戦」に輝元軍。1571年備中三村氏の反乱を鎮圧。1578年尼子軍の「上月城攻囲」。1585年秀吉に毛利重臣として謁見。息に元良、元智、(和智)元経。娘婿に山内広通。石見要路城主。
○福原元俊 (*1541~1591)弥五郎・出羽守・上総介・式部少輔・広俊。毛利一門。貞俊の息。祖父・広俊の名を継承。毛利家重臣筆頭。義兄弟に三吉隆経、平賀元相、熊谷元実。1565年「月山富田城攻略戦」に輝元軍。1570年尼子勝久との出雲「布部山の合戦」に輝元軍。1571年主君・毛利元就の死去。1588年に豊臣姓を与えられる。息に広俊、元頼。<叔父に吉川家家老・宮荘元正。><親戚に桂元澄、口羽通良、和智誠春、天野隆重、杉重良。>
福原俊親 (*)1565年「月山富田城攻略戦」に軍功。<厳島神主家が親を通字とするのでその系統か。>
↓福原元秀 (*~1571)次郎大輔。1570年尼子勝久との出雲「布部山の合戦」に輝元軍。1571年尼子残党、羽倉元陰に討たれる。山陰方面旗頭、伯耆国米子城主。<吉川元春の家老として宿老・宮荘家に養子に入った福原氏の一門か。>
志道元保 (1524~1582)上野介。毛利一門。志道広良の嫡孫。弟に良泰。1539年父の死後、家督。1563年毛利隆元に従い北九州に出陣。1565年「月山富田城攻略戦」に輝元軍。1570年尼子勝久との出雲「布部山の合戦」に輝元軍。49歳。息に元規、(椙杜)元縁。<1539年に死去とすると年代が合いませんが毛利輝元(1553年生まれ)の烏帽子親となった坂広昌が父親なのでしょうか・・。>
坂 元貞 (*)志道元貞・式部大輔・広昌・広門。志道広良の息(次男)。坂(桂)広秀の跡職を継承する。毛利隆元から所領安堵。息(養子)に元時。
↓○平佐就之 (1530~1612)源七郎・藤右衛門・伊豆守。平佐元賢の息。平佐家は元就の多治比時代からの郎党。毛利元就の側近。毛利家の「出雲遠征」に従軍。1563年出雲「白鹿城攻略」に軍功。のち石見銀山の奉行。1571年主君・毛利元就の死去。
↓桜井就綱 (*)毛利元就の側近。毛利家の「出雲遠征」に従軍。1563年出雲「白鹿城攻略」に、平佐就之とともに軍功。安芸竹長城主。
↓○南方就正 (1540~1599)宮内少輔・壱岐守。南方元次の息。兄に就由。大内家滅亡後、市川経好を補佐し長門経営。1569年大内輝弘の挙兵を鎮圧する軍功。1571年主君・毛利元就の死去。右田岳城主。1581年備中忍山相城に遠征。息に元雅。
↓遠藤元綱 (*)美作守。安芸国佐伯郡の豪族。1554年「厳島の合戦」に先陣の軍功。備後の「布野の合戦」に軍功、防長平定戦、1569年大内輝弘の撃退に軍功を挙げる。釈迦ケ岳城主。
国司元信 (*)国司就信の息。周防国山口の旗頭。大内義隆の33回忌に参加。
<輝元の五奉行(2世代目)>(1560~1570頃)
↓児玉元良 (*)三郎右衛門・元実。五奉行のひとり(奉行期間1562~1584)児玉就忠の息、尼子家臣・湯原春綱の娘婿。1553年毛利隆元を烏帽子親に元服。1562年父の死後、家督。1565年「月山富田城攻略戦」に輝元軍。1570年尼子勝久との出雲「布部山の合戦」に輝元軍。1571年主君・毛利元就の死去。1578年播磨「上月城攻略」に出陣。嫡男・元兼が負傷する。
粟屋元勝 (*)元信。五奉行のひとり(奉行期間1563~1587)粟屋元親の次男。兄・粟屋元著が早世し、跡職を継承する。1570年尼子勝久との出雲「布部山の合戦」に輝元軍。1571年主君・毛利元就の死去。<元種の息子に同姓同名の粟屋元信(*~1579:戦死)あり。隆景の養子となる堅田(小早川)元慶も一時「粟屋元勝」と名乗り同姓同名。>
<輝元の五奉行(3世代目)>(1570~1580頃)
国司元武 (*)元助。父の隠居後、家督。毛利輝元の守役に、隆元から指名される。五奉行のひとり(奉行期間1567~1586)。1565年「月山富田城攻略戦」に輝元軍。1570年尼子勝久の蜂起に出雲出陣、「布部山の合戦」に勝利。1571年主君・毛利元就の死去。
粟屋元真 (*)粟屋家嫡流。五奉行のひとり(奉行期間1567~1586)。1565(永禄8)年出雲「月山富田城攻略」に輝元軍。1570年尼子勝久の蜂起に出雲出陣、「布部山の合戦」に勝利。1571年主君・毛利元就の死去。<元就家督の際、粟屋元国が粟屋家惣領だったので直系の子孫か。詳細不明なのは何故でしょう。>
↓○粟屋元種 (1523~1605)余十郎・内蔵允・但馬守・元宣。五奉行のひとり(奉行期間1567~1586)。粟屋元好流・粟屋元方の息。兄に盛忠。粟屋元国の甥。宍戸隆家の娘婿。1569年山口で大内輝弘の蜂起に高嶺城に籠城し撃退。1571年主君・毛利元就の死去。1578年摂津木津城に遠征。織田軍と対峙する。1579年嫡子・元信は備中「加茂の合戦」で戦死。弟・元忠の次男・元貞を養子とする。82歳。<創業からの長寿の将。>
↓○桂 就宣 (*)左衛門尉。五奉行のひとり(奉行期間1567~1586)。桂元忠の息。1570年父の隠居後、家督。1583年備前国津高郡の忍山城主。美作国の小寺畑城主。1571年主君・毛利元就の死去。
<譜代家老衆 第三世代> 毛利輝元世代(1553~*)
蔵田就貞 (*)東市介。秀吉政権下で「赤間関渡船奉行」、「防長移封」に検地奉行。
↓三浦元忠 (1555~1596)神田元忠・惣四郎。毛利輝元の側近。周防三浦氏を継承。のち下関奉行。1585年豊前門司城主の仁保元豊とともに関門海峡を閉鎖。
○福原広俊 (*)元俊の息。1600年「関ヶ原の合戦」に弟の元頼、吉川広家とともに東軍に通じる。
桂 繁次 (*)紀伊守。穂田(毛利)元清の家老・桂広繁の息(次男)。元澄の孫。1582年備中に出陣「加茂城籠城」。離反した生石氏を破る。のち小早川秀包の家老職。朝鮮に渡海。
堅田元慶 (1568~1622)<小早川元慶>・粟屋・兵部少輔・広澄・元勝。粟屋元通の息(次男)。毛利輝元の側近。1584年小早川隆景退去後の三原城主。
粟屋元貞 (1562~1630)右近大夫。粟屋庶流、盛忠の息(次男)。輝元の五奉行・粟屋元種の養子。1579年備中加茂にて元種の息・粟屋元信が戦死し、叔父・元宣(元種)の養子となる。息に就貞。
粟屋元定 (*)粟屋元秀流。粟屋元通の嫡男。1607年父の死後家督を継承する。<従兄弟に粟屋元著、元勝(元信)兄弟。>
粟屋就元 (*)1586年九州「島津征伐」に従軍。香川春継とともに豊前国の香春獄城を攻略。
粟屋元幸 (*~1600)太郎左衛門。関ヶ原の前哨戦、「大津城攻略」に戦死。
児玉元兼 (*)児玉元良の嫡男。1578年播磨「上月城攻略」に出陣し負傷する。
児玉元房 (*~1580)児玉就光の息(次男)。1580年備中「加茂小倉城攻撃」に戦死。
井上元勝 (*~1580)井上就正の息。1580年備中「加茂の合戦」に戦死。
↓内藤元泰 (*~1608)少輔九郎・中務少輔・下総守。安芸国人。曽祖父・元康の時代に毛利家臣。毛利輝元を烏帽子親に元服。熊谷直清の娘婿。1566年から尼子義久兄弟を預かり、留置所所長。1571年主君・毛利元就の死去。1572年浦上氏攻撃に従軍し、備後軍の検使。織田軍との抗争で備前方面の軍監を務める。安芸長田郷を領す。
<譜代家老衆 第四世代>
桂 元綱 (*)小早川隆景与力。四国征伐に従軍。1597年末次元康に従い朝鮮渡海。蔚山城在番。
▼冷泉元満 (*~1597)元・大内家家臣。隆豊の息。兄に元満。坂元祐とともに毛利家に出仕。毛利家水軍衆。小早川隆景家臣。1597年末次元康に従い朝鮮渡海。蔚山城にて客死。息に元祥。
天野元信 (*)彦左衛門尉。1597年末次元康に従い朝鮮渡海。蔚山城在番。<1582年の高松城攻防戦では天野元明が活躍。>
井上元辰 (*)1597年末次元康に従い朝鮮渡海。蔚山城在番。
桜井元政 (*~1597)小左衛門。就綱の息。毛利輝元の側衆。1597年末次元康に従い朝鮮渡海。朝鮮にて客死。
八幡原元直 (*)1597年末次元康に従い朝鮮渡海。蔚山城在番。
▼市川元直 (*~1597)三右衛門尉。1597年末次元康に従い朝鮮渡海。朝鮮にて客死。
(毛利家鉄砲衆)
1561年毛利軍は大友氏との豊前門司城の攻防戦でポルトガル船の大砲による艦砲射撃を受ける経験あり。
中国製石火矢 → 鉄砲導入1555年頃~1568年対大友「立花城攻略戦」 → 播磨「上月城戦」に大鉄砲仕様。
飛落元吉 (*~1580)宇多田・小次郎・藤右衛門。1563(永禄6)年尼子氏撃退に軍功。1565年「月山富田城攻略」に渡利元政と鉄砲衆200人を率いる。筑前立花城攻防戦に活躍。1578年上月城攻略に大鉄砲を撃ち込む。<中間から鉄砲衆の旗頭まで出世。初期の光秀のような感じでしょうか。>
渡利元政 (*)1565年「月山富田城攻略」に飛落元吉と鉄砲衆200人を率いる。<渡元政と同一人物か。>
<外様家老衆>
元就取り立て直参衆として特権を与え、毛利家の中枢に成り上がった者
佐甲* (*)大内家家臣。関問丸役。のち毛利元就に仕える。<大内家の水軍衆。>
⇔帆立直正 (*)堀立直正。安芸佐東太田川の倉敷地堀立(帆立)の武家商人。毛利元就と結び、陶氏に反抗。1551年厳島を制圧する。毛利家の赤間関代官職を得る。九州侵攻に従軍。<安芸の水軍衆。>
⇔鵜飼元辰 (*)元就側近。近江出身。元「猿楽者」。
↑小倉元悦 (*)元就側近。近江出身。
↑小川元政 (*)右衛門・兵衛尉。近江出身の浪人。毛利家に出仕。「尼子討伐」に軍功。富田城番。1580年湯原春綱、塩谷元真、福田盛雅とともに美作医王山城の後詰。浮田軍を撃退する。
内藤元栄 (*)安芸豪族。安芸中郡衆内藤家庶流。
林 就長 (*)菊池。九州肥後出身。菊池一門衆。
佐世元嘉 (*)出雲出身。元・尼子家家臣。
大庭賢兼 (*)元・大内家家臣。1568年元就に登用され、毛利家の奉行衆の育成に当たる。
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