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「視」「観」「察」。3STEPで人物を見極める。孔子の人間観察法―『論語』

3つの「みる」。「視」「観」「察」

 その人となりを見定めるのに、どうしていますか?
 表情、しぐさ、言葉(物言い)、振る舞いなど、いろいろな角度から、人をみるようにしています。しかし、人生経験を重ねてもまだ、その人となりを見誤ることがあります。

 参考にしたいのが、孔子の人間観察法です。
 孔子は、3つの「みる」でみていけば、その人の行動から本性までを見極めることができると『論語』で語っています。
 3つの「みる」とは、「視」「観」「察」です。

 3つの言葉の違いがわかるように、まずは読み下し文からみていきましょう。

その以(も)ってする所を視(み)、
その由(よ)る所を観(み)、
その安(やす)んずる所を察(さっ)すれば、
人焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや、人焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや。

『論語』為政篇

 意味は渋沢栄一氏の『論語講義』がわかりやすいので、それを引用します(ほかにも、いろいろな訳出があります)。

人を見るのに、現在の行動を観察する。
そればかりでなく、その動機は何か、また目的は何か、
そこまで突っ込んで観察する。
そうすれば、どんな相手でも自分の本性を隠しきれなくなる
                  守屋淳編訳「渋沢栄一の論語講義」 

 こう訳出したうえで、渋沢栄一氏次のように解説を加えています。

 そもそも人物を観察するには、
第一に、その人の外面にあらわれた行動の善悪や正邪を見る。
第二に、その人がいましている行為は、何を動機にしているかをとくと見極める。
第三に、さらに一歩進めて、その人の安心はどこにあるのか、どのあたりに安心して暮らしているのかを察知する。

 (そこまで観察することで)その人の嘘偽りのない性質が明らかになる。
  いかにその人が隠しても、隠せるものではない。

 外面にあらわれている行為と、その行為の動機と、両方を掘り下げて見比べて、判断しなさい。そうすれば人物を見誤ることはない、と孔子が断言しているのだ、と渋沢栄一氏は締めくくっています。

 人の心や行動は、いつなにが原因でかわるかわかりません。それを観察する自分のほうも、無意識のうちにフィルターをかけていることもあります。
 FBIの監察官などによるプロファイリングに拠る手法のほうが、より確度が高いかもしれません。

 それはそれとして、人物を観察する眼を養ううえで、孔子の人物観察法は、参考になります。

行動をみる→動機をみる→見えないものをみる

さて。
3つの「みる」の違いを次のようにアタマに入れておくと覚えやすいです、と論語教師の安岡定子先生に教えてもらいました。

「視」=行動をみる
「観」=動機をみる、つぶさにみる
「察」=結果をみる、見えないものをみる

「視察」は、「視」と「察」の2つの言葉から成り立っています。実際にその場に出かけて行って状況を見きわめるなどの意味で使われています。

また「観察」は、ここに出てきた「観」と「察」、2つの言葉から成り立っています。事物の現象を自然の状態のまま客観的に見る、という意味で使われています。

ともに「視」、「観」という「みる」、「察」という「みる」が組み合わされて使われているわけですが、「見守る」ことと、「本質」や「結果」を見極めること、多角的で深く「みる」ことの重要さを伝えようとしている。そんな狙いがあるのでしょうか。
国語学者ではないので、一般市民としての理解なので、間違っていたらご容赦を。

 参考まで。この言葉をめぐって、こんなやりとりがありました。

「その人となり」を見透かすのに、「悪いところ」や「人の裏」を見つける為の行為が多いような気がしています。時代の産物ですかね。

←「悪いところ」や「人の裏」を見つけ、指摘することで、溜飲は下がるかもしれません。「正義の人」の気分を味わえるかもしれませんが、人を傷つけることだけを目的にしているのなら、残念なこと。
 そういう視点で人やモノを見ている本人は、それ以上人間的に成長しないし、周りに「いい人」が集まってこないと思います。

観察眼を駆使して、そのひとの「良いところ」や「尊重」を「みる」人が増えれば、平和な世の中になる気がしてなりません。

←おっしゃるように、世の中の雰囲気も流れもよくなりますし、その人自身が幸福になれると思います。

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