息子、最愛の弟子の逝去。孔子を襲った晩年の悲劇と「従心」の境地―『論語』
心の欲する所に従いて、矩を踰えず
自分の人生をどう振り返るのか。
20代、30代の道なかばだとしたら。
人生の勝負がついたかどうかというくらい、第3コーナーにさしかったところだとしたら。
第一線から身を退いき、次のステップへ移ったところだとしたら。
74歳で亡くなった孔子が、70歳の心境について語ったことばを、人生をどう振り返るのかの参考にしてみたい。
70歳になったときの境地はどうかって?
自分の思うままに行動しても、社会の規範から外れることがなくなったよ。
神田が意訳しています。
読み下し文は次の通りです。
激烈に生き抜いた苦労人、孔子の生涯
偉大なる教育者・思想家として知られている孔子。2500年も前の古代中国において、ある意味、激烈に生き抜いた苦労人です。
魯という小国の下層の生まれで、小役人から紆余曲折がありながら大司空(しくう)、大司寇(だいしこう=公安・警察担当の長官)という地位まで上り詰めます。
しかし、まもなく、失脚。
故国を出て周辺諸国で求職活動を展開しますがかなわず、弟子たちと10年以上放浪生活を強いられます。
弟子の根回しによって、故国・魯に戻ることができたのが69歳。政治顧問のような立場を与えてもらっていたようですが、多くの時間とエネルギーは若い弟子たちを教育することに費やしています。
この数年を見る限り、充実した晩年を送ったといえるでしょう。
晩年の孔子を襲った悲劇の数々
ただ、この間も平穏だったわけではありません。故郷に戻ってから、息子がなくなっています。
それだけではありません。後継者に想定していたと思われる、一番優秀な弟子、顔淵が病死します。その死を「ああ、天われをほろぼせり」と悼みます。日ごろ、人の死に際して、君子は涙するものではない、と説いていた孔子が、人目をはばからず号泣したのでした。
また、血気盛んでボディーガード役的存在として長年かわいがってきた弟子の子路が、仕官先の衛国の内乱に巻き込まれて戦死。子路は反逆者のひとりとして、その死体は塩漬け、「醢」(死体を塩漬けにする「刑罰」)に処されたのです。それに心を痛めた孔子は、以後、塩漬けは一切口にしなくなりました。
晩年に最愛の息子や弟子を相次いで失い、孔子の心に大きな穴が空いたことでしょう。
孔子の心にあいた穴、空虚されはそれだけではありません。10数年に及んだ諸国放浪が不首尾に終わったことも、「敗北」として孔子の胸に深く刻みこまれたいたはずです。
中国の各国諸侯が覇権を競う戦国時代へと大きく動いていくなかで、孔子の説く「徳治」によって治める政治哲学は、現実にそぐわないものになっていました。
各国の君主や官僚からは、敬意を表して遇されたとしても、「過去の人」というレッテルを貼られ、その門を閉ざされていたのです。
それが政治の現実でした。
「矩を踰えず」。
自然と社会規範に収まっている、ということですが、孔子の心中を察していくと、意味することは、それだけではないように思えてきます。
引退した私が、どんな提言をし、君主に働きかけたとしても、誰も応えてはくれない。すべてのことは、私の思索の世界にとどまってしまう。
勝手な解釈を許していただけるのなら、それが私の見方です。
そういう喪失感を抱えていたいとしても、孔子という人が偉いのは、現実に向き合って、自分になりにできることに力を尽くそうとしたことです。
日々、優秀な若者たちを世の中の役に立つ徳を備えた人材へ教え育てることでした。そのことにこれまでにない喜びを感じていたのです。
若い弟子の将来を願って育成に没頭する
孔子の心境の変化が、『論語』の弟子との問答から伺えます。
古参の弟子である顔淵、子路などに対しては、答えを一言で言い切っています。あとは自分で考えて行動しなさい。リーダーとして成長していく人を育てるには、厳しく指導し、本人の発奮を促す。
そういう姿勢を貫いていました。
一方、晩年の弟子たち、子夏、子張、子游、樊遅、曾子などの多くは当時20代でした。70代となった孔子は彼らに対して、教え諭すように接しています。ものわかりがあまりよくない弟子には、言葉を足して説明しなおしています。
ときには、彼らの仕官先、赴任先を訪ね、仕事ぶりをみて、思うところを率直に語っています。有名なのが、子游が長官をしていた武城という邑を、弟子を率いて視察に訪れたときのエピソードです。
行き届いた統治ぶりをみて、孔子は「鶏(にわとり)を割(さ)くに焉(いずくん)ぞ牛刀(ぎゅうとう)を用(もち)いん」と言います。地方の町を収めるのに、国政レベルの行事や式典をすることはないだろう、という意味です。それは批判ではなく、よくやっている弟子をちょっとからかうことで、ねぎらおうをしたのでしょうか。
生真面目な子游は、師匠の真意を慮る余裕がなく、私は孔子先生から教わったとおりに、治めているのです、とストレートに反論します。
弟子たちを引き連れていた孔子は、「さっき言ったのは冗談だよ」と言ってその場を収めています。
そんな茶目っ気もあったのが、孔子という人の生きざまなのです。
* *
一生を振り返って、自らの晩年をどう語るのか。
自慢話に終始することなく、かといって、抱えている心の傷をさらけだすこともしない。
理想たどり着けなかったことを悔やみもしない。
前を向いて生きている自分を、もう一人の自分が優しく見守っている。
そんな境地を語っているのが、孔子の言葉ではないでしょうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?