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過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない。最善の解決策を探る―『論語』

成事(せいじ)は説かず、遂事(すいじ)は諫めず

 スタッフが、アドバイスしたことに耳を傾けずに、自分の考えでやってしまい、結果うまくいかなかった。
 あるいは、事前に相談もなく、独断でやってしまい、相手先とトラブルを起こしてしまった。
 あなたにとっても無傷ではありません、損害や信用にかかわる状況となったときに、当事者にどう対応しますか?

 そうした「困ったちゃん」に、孔子がアタマを悩ませていた話が『論語』に出てきます。その口ぶりは、孔子の嘆きとも受け取れるほどです。

できてしまったことを、とやかくいっても仕方がない。
やってしまったことを、いまさら諫めても仕方がない。
過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない。

成事(せいじ)は説かず、
遂事(すいじ)は諫めず、
既往(きおう)は咎めず。

『論語』八佾篇

 君主からアドバイスを求められた弟子が、自分勝手な解釈まで口にしてしまった。やりとりは社(やしろ)の神木に関することなので、詳細はここでは省きます。
 ともあれ、そのことを伝え聞いた孔子が、弟子の不心得を戒めて言ったものです。

 叱られた弟子は宰我(さいが)。弁舌さわやかで口才のある人。才能がある子貢とともに、「言語には宰我、子貢あり」と孔子が評価しているほどで「孔門十哲」の1人に数えられる優秀な弟子です。
 そういう人ほど、往々にして才気走ってしまうものです。

明治の実業家・渋沢栄一氏は既往にどう対処したか


 こうして孔子が戒めとして言った言葉が、城山三郎さんの小説『雄気堂々』で、渋沢栄一氏が好きな『論語』の言葉として引かれています。
 それはこんな状況でのことです。

 かつて渋沢氏が大蔵省在職時代に対立した部下が、復職、昇進していた。民間に転じ、第一銀行の責任者の立場にあった渋沢氏は、大株主である三井との主導権争いで窮地に追い込まれてしまい、それを脱するには元の部下の力を借りなければならなくなった。 

 そのときの渋沢氏の心境が、この言葉で語られているのです。

 目の前の問題を解説するには、過去のいきさつはどうあれ、恨みに思っている元部下に頼み込むしかない、と。

 渋沢氏の要求を元部下は聞き入れてくれました。もちろん厳しい条件つきですが。それによって、いろんな偶然も重なって、第一銀行は三井の支配下に入らずに済んだのです。合本主義によって企業を運営する、という渋沢氏の理想はこうして貫かれたのでした。

『論語』で説かれていることを、どう受け止めて解釈するか。
『雄気堂々』に描かれている渋沢栄一氏のエピソードはあくまで小説ですが、この章句について、渋沢栄一が『論語講義』で自ら語っていますので、それをかいつまんで紹介しておきます。

「すでに出来てしまつた事は後からとやかく申したところでいたし方がない、すでに遂げられてしまつた事を、いまさらよろしくないからとて諫めたところで格別効果のあるものではない、総て既往は咎めぬがよい」
と仰せられたのは、誠によく孔子が万事に淡然たる特色を発揮した言である。

 有能な実業家らしい、落としどころをよくわきまえた対応です。

 ここから学ぶべきは、スタッフの犯した失敗、あるいは過去にあったスタッフとの不和に、いつまでもこだわっていても、事態は解決しない。未来に目を向けよう、ということです。


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