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私の役割 Vol.9

私が自動車の整備をやっていたころ
80年終わりのバブル期、当時は就職活動にディーラーの本社に、面接を受けに行くと、決まって人事の担当者が、今日はどのような手段で、面接にお越しですか?と尋ねられ、「車です」なんて、元気に答えていた。すると、面接官が、「少ないんですが、駐車場代に使ってください」と5000円から10000円の入ったポチ袋を手渡す企業が数社あった。中には企業見学でも・・・
そんな中、学校に戻ると、A社は、いくら包んでB社の方が多かったとか、トヨタは、トヨタ車、日産は日産車しか乗れないといわれ、ダイハツだとシャレードくらいしかない、そんな会社選びをしていたなんて今考えると、就職氷河期に就職活動した方々には申し訳ない。

私はそんな簡単に就職できる時代に就職をしたので、その後も何とかなるさでたくさんの転職をしてきた。自動車業界をやめるきっかけは、父が病気(喘息)で入院することになり、家業を一時的に手伝わなくてはいけなくなり、休職を申し出たのだが、約束の休職期間が終わり、会社に戻ると、「そんな都合よく退院できるなんて、そんなウソまでついて」と言われて、会社は退職手続きをすすめ、社会保険も切ってしまっていたのだ。これには参ったが、そのころバブル崩壊がおこりじわじわ、就職が狭き門になっていた時期だったので今考えると、体よくリストラされたんだと思います。藁
その後の仕事については、後日語るとして、今回は自動車整備士として仕事をしていたころの話をしたい。

まず、自動車整備士の国家試験は3月の中旬くらいに受験するのだが、国家試験の結果発表は5月の末ぐらいだったと思う。整備士資格が取れなかった場合は、試用期間終了で整備士ではなく営業に回されるか退職するかの分かれ道に立たされる。私は幸い合格し、サービスマンとして晴れて整備士になったのだが、国家資格に落ちてしまうと大概の人はやめてしまう。

整備士資格は現在1級整備士という資格があるが、当時は2級が最上位資格で、私の先輩の中にはやはり2級ができる前に3級整備士が最上位だった頃の先輩が居て、はじめての工場に入ったころはよく虐められた。「2級様はボルトも緩められないんですね」とか、専門学校の実習車は毎回同じ車を、クラスごとにばらして、組んでの繰り返しなので、簡単に外すことができたのだが、実際に走行した車は(走行による、温度の変化や、オイルのスラッジ、または錆付きなどで固着が起き外れない)そうはいかなかった。

そこには、文字であらわすには説明できないコツが必要で、それを取得するまでは三級様に、頭を下げなくてはならず、素直に「教えてください」と言えるまで、1か月ほど時間がかかった。頭を下げると3級様を素直に先輩と呼べるようになり、その後は今でいうパワハラもなくなり、楽しく過ごした。

自動車にはメーカや車種によって特殊工具(S.S.T=Special.Service.Toul)があり、イレギュラーで取り扱いのない車種の整備が入ると、その車用に、その工具を買うか、都整振(東京都整備振興会)の地区の他社に借りに行くかもしくは作るかという発想になる。今では、あまりない発想だ。

私の、今の建築の現場でも、この時の「造る」は私に影響を及ぼしている。
専用の工具がなければ造ればいい。という発想はこのころから芽生えたのだと思う。

例えばモンキーレンチなどは、サンダーでボルトを挟み込む面を研磨して幅を広げ一回り柄の短いモンキーで狭いところで作業できるものを作ったり。

エクステンションバー(ラチェットに取り付けソケットを延長する専用ソケット)に丸鋼を使って溶接して通常のエクステンションバーでは届かない場所を整備できる道具を造ったり。さらに自分に使いやすく加工を加えた。

今では市販されているが、普通のメガネレンチをガスで炙ってを曲げてドアヒンジレンチの様に加工してみたり、まあ専用工具をいろいろ自分なりに改造したり制作したりすることをよくやった。

私の勘違いというか、ずっとプラスねじを作ったのは本田宗一郎氏だと思い込んでいたが、1954年欧州視察の際に本田宗一郎がプラスネジを持ち帰り、二輪製品に導入したのが国内最初のことだったことを専門学校の先生に雑談の中でホンダが作ったと、教わり信じ込んでいた。自分は今ではどんな機械や、建築の世界でも使われるプラススクリューを考案するほど、若いころはいろんな工夫を仕事の中に取り入れた本田宗一郎氏は神だったんだなーと信じ、俺も、なにか作ってやろうと!って当時は興奮させられた。

建築現場で、電動インパクトが普及する前から自動車業界ではエア式のインパクトドライバーがよくつかわれていて、建築用は片手では持てるよな重さのインパクト充電ドライバーがなかったころに、マキタから電動充電式インパクトが発売され、それをもって単管パイプのクランプの締め込みやバラシに使い始めたころは、電池の容量も少なく、予備電池を2つ持っていないと仕事にならなかった頃、周りの職人からは、そんなもん持ってきて、ラチェットの方が早いと、重いとか、冷やかす職人も多かったが今は、インパクトを持っていないとび工が居ないくらいになっている。時代変わって、単管足場が減り、くさび緊結式足場が主流になることで用をなしてしまった感じではあるが、流用できるものは流用する。創意工夫ができることが私の生きがいであり、これからの若者に押し付けるのではなく、こんなこともできると伝えていくのが、役割なんだと思う。


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