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未来を考える力とやらを身につける方法論

はじめに

一発目に書くことを決意した、表題がなぜ「未来を考える力とやらを身につける方法論」なのか。
まずはそこから書き記しておこう。もちろん誰かのためではなく自分のメモとして。いつかの未来に振り返った時に、なぜこれを書いたのか? という、その時の自分の熱量や、想いに立ち返る装置として。

この未来を視る力を仮に「未来視」と呼ぼう。
なぜ、この未来視を取り上げたかというと、私はとある公務員の若手所員たちにボランティアで勉強会を行なっている。
そして彼らに伝えたい一つ目の議題がこの「未来視」という考え方だ。

公務員と言えば、潰れない会社。キングオブ安定。
人生イージーモードの代表格。と、考えられている。
ところがどっこい、話を聞いてみると若手所員たちは、残業禁止だと上司から命じられ、しかし仕事は片付かずに、お持ち帰りを余儀なくされている。別の地域の所員の課長職は毎日24時まで働いている。そんな告白を聞いている。

イージーモードと思われている所員たちがなぜ、こんなに激務を与えられてしまっているのか? まずはそこから考えたい。
ヒヤリングして感じるのは、仕事に対しての熱量の有無だ。
公務員職につけたこと自体が「上がり」だと、考えている人間には確かにイージーモードなのかもしれない。
しかしながら、その職に就いたからには職務を、もっと言えば責務を果たさなければならない。と、考えるプロフェッショナル達は仕事に成果を求め、あるいはイノベーションを求め、日々戦っているワケだ。
そして、その戦いが現在(あるいは過去から現在)と未来を同時にワークしなければならないことが往々にして原因ではないか。と感じた次第だ。

今までとコレカラの軋轢

日本の、とりわけ公務の中に存在する大きな問題の一つは「お作法」ではないだろうか?
発足以来脈々と続く、その部署部署、あるいはタスク毎に存在するこの「お作法」は時代の流れに、環境の変化に、合わせることものなく、伝統芸能のように脈々と受け継がれ、業務実装され続けているワケだ。
一方で、イノベーター思考の志高い所員たちはこの「お作法」の無意味さ、もっと言えば無駄さにいち早く気づく。
そうして、最初はその無意味さを指摘するわけだが、伝統工芸士の上司たちはそのお作法が、ある種の法律、憲法であるかのように「変えられないもの」と思い込み、彼らの意見を封殺する。
そうして、イノベーターたちは無駄な「お作法」を組織形式上やらざる得ない状況となり、それとは別軸で、自分が本当にやらなくてはいけないと感じている「使命」(本当にやりたいこと)に対しても立ち向かっていく。

結果、アナログとデジタルの二重作業が発生したり、どこかの部署からデータをもらえれば簡単に解決する問題に関して、改めてマクロ計算を行ったりと無駄と使命の間で板挟みになっている。なんとも勿体無い。生産性が低そうな業務スタイルが確立してしまうわけだ。
なるほど、日本が30年間成長できない理由の一端が、公務一つ見ても感じ取れてしまう。
彼らの給与財源である市県民税を支払っている我々市民に、仮に所員任命権が与えられるならば、この「お作法主義」の所員幹部あたりを一掃するというキャンペーンを行った方が良いと思えるほどだ。

未来視を考える

過去のお作法に縛られ、諦め、初志を見失い感情を無くしてしまうロボットを生み出すことが日本の企業システム、あるいは経営システムの根幹に少なからずあるとすれば、組織人は腐るしかなくなってしまう。
しかしながら、それを良しとするほど私は達観していないし、若者たちの熱量に対し何か解決するためのヒントを与えられないか。と、考えるわけだ。
その一つの提案が「未来を考えられる力」にあるのではないかと考えている。
さて、ようやく本題だ。

未来視とはなんだろう?

字面を見て思い描いた、アナタのイメージとおおよそ相違ないかと思うが、読んで字の如く、未来を視る力だ。
では、未来を視るといことはどんなことなのだろうか? もしくは、未来を視る力とはどうやって養っていくものなのだろうか? これを細分化して考えていこうと思う。

予知能力みたいなものを、近似的なイメージに重ねることがあるかもしれないが、未来視はそんな超能力的なものではない。
現在に裏付けられた事象をもとに、これからを想像する力が未来視であると、私は考えている。

例えば、IT業界の未来を考えた際、私が思い描く未来は以下の時系列にまとめられる。

  • 2025年 AIシンギュラリティの到来

  • 2030年 テクノロジーの変容。Google検索からAIへの対話型質問解決を行うユーザーが全体の50%を超える

  • 2033年 AIが完全な民主化。ホワイトカラー職の不要論が蔓延する

  • 2035年 大手広告会社、出版会社、新聞会社の倒産が相次ぐ

  • 2035年 以降、職種という概念が変化し、働くことの定義も変容を遂げる

とまぁ、ざっと妄想するとこんな感じである。
さて、この妄想がどこから生まれたのか? この考え方こそが未来視を身につけるために必要な要素と言えるであろう。

未来視の身につけ方

未来視は一言で言えば知識量をもとに組み上げる推論と言っても良い。
現状に渦巻く様々な情報にアンテナを張り、様々な考え方をスポンジのように吸収する。
これは岡田斗司夫氏の受け売りだが、「知識が積み上がれば積み上がるほどに人は遠くを見通せる力を身につけることが可能になる」という考え方がある。少し図解してみよう。


未来視と知識

例えば、受験で戦うための知識しか持たなかった人間は、入学前には受験という壁しか見ることはできずにその先を見通す力は持っていない。
しかし、受験以外の知識(経験)を持ち得た人間は、知識という土台の上に立つことが可能であり、受験の先の未来。卒業そして就職というステージまで見通すことが可能となる。

つまり、どれだけ多くの知識を用いて、現状から未来を組み立てる能力を持てるのか否かが、未来視を可能とする人間力となるわけだ。

先ほどの私の未来視をITと限ったのには訳がある。
自身の身を置く職場がまさにこの環境ど真ん中だからだ。そのため昨年末から騒がれ出したAIカンブリア爆発など、自身の周りの情報を集約することによりIT分野からの未来視を設計できる。というのがカラクリであるわけだ。

こういった形でまずは自分が得意とする分野の理解を深め、その外側にある知識にまで守備範囲を広げて、徐々に知識の幅を広げる
そうすることで、未来視の解像度を上げていくことで、我々は来るべき未来に備える能力を新たに得ることができるだろう。

さて、予想以上に長く語ってしまったので、今回はここまでとする。
次回は、未来視の実例を混ぜてケーススタディを行ってみようと思う。
公務でイノベーションを起こそうとする彼らのためにも、身になる情報を提供できる例題になるように語れるように、努力する。


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