見出し画像

学校はすべての「生」を肯定する場所

「寄り添う」という言葉は、最近よく耳にするようになった「ケア(ケアリング)」と、よく似ています。

ケアと聞くと、イメージする場は病院でしょう。
入院してベッドの上に寝ている患者に対して
ケアラーである看護師や介護師が検温したり、床ずれがないように寝返りを手伝ったり、体を拭いたりする場面を想起します。

このとき、ベクトルはケアラーから患者(クライエント)に向けられています。
一般には、この行為がケアであると考えられているようです。

でもこうした見方は、私は本当のケアの意味としては半分しか示していないと思っています。

私は、ケアが本当に成立するときとは、ケアされる側がケアされていることを自覚し、満足し、相手(ケアラー)に対する感謝の念が自然発生的に起こり、その反応(表情や言葉など)がケアラーにフィードバックされるときであると思います。
それによって、ケアラーはクライエントから自己の存在価値を承認され、仕事へのやりがいを感じるとともに自らの「生」を肯定的に捉えることができます。
簡単に言えば、クライエントから豊かな人生を与えられているのです。
同時に、病気に苦しむクライエントも、自分に対して誠意をもって接してくれる他者がいることを喜びとすることができ、こちらも自らの「生」を肯定的に捉えることができます。
「病気である私」ではなく「人としての私」の「生」が認められたというこの上ない幸福感に包まれているでしょう。

つまり、ケアとは両者のいずれかによって、一方的に成立するものではなく、相互に「生」を肯定し合い信頼し合うという、人と人の関係そのものなのです。

さて、現在の学校はどうでしょう。
多様な個性はそれぞれの「生」によって認められているでしょうか。
教師から生徒への一方向の働きかけや指導ではなく、生徒から喜びを与えられていると感じている教師が働きづらいシステムのなっていないでしょうか。

特別な支援が必要な子どもが教室を飛び出してしまうとき、それを「生涯のある○○さん」ではなく、名前を持つ個性として認め、とことん寄り添うことができる人員を含む環境整備は整っているでしょうか。

もうそろそろ、特別な支援が必要な子を通常の学級に戻そうとか、おとなしく授業が受けられるようにしなければならないという考えを捨てるべきだと思います。
むしろ、そうした子どもたちが本来あるべき学校の姿を示してくれているのではないかという視点を持つべきです。
そして、それをゆとりをもって見守り、寄り添うことができるシステムに変更すべきです。

歩みは、すでに始まっています。
広島県の常石ともに学園(公立)は、その代表的な学校です。
どうか、一度ホームページを訪ねてみてください。
「これが本当に公立の一条校か」と驚かれるに違いありません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?