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第76話 藤かんな東京日記①〜上京〜


夜行バスで東京移動

 2023年9月15日、東京にやってきた。仕事でも観光でもない、引っ越しだ。

 早朝6時40分、鍛冶場駐車場に到着。なぜ東京駅ではなく、駐車場なのか。夜行バスで来たからだ。14日に荷出しをして東京に向かう。荷物がやってくるのは15日。つまり新居に来ても、寝具がない。ならば夜中に移動しよう。そんな理由で夜行バスでの移動を選択した。少しの好奇心があったかもしれない。

 14日、早朝に引越し業者がきて、荷出しが行われた。ダンボールや家具がわしわし運ばれていく。ベットが運ばれた跡には、ゾッとするような埃が積もっていた。
「何年住んでたんすか?」
「8年です」
「それは長いですね」
 業者のお兄さんは部屋の隅で三角座りしている私に言った。私は8年分の埃を写真に撮ったが、どうせ見ないなと思い、すぐ消した。

 全て荷物を運び出して、お兄さんが聞いてきた。
「これで荷物は全てでしょうか。運び忘れがあった場合、お客様ご自身で運んでいただくことになります」
 キッチンの扉の中を確認する。お兄さんは上の棚を開けた。
「うわっ、ここむっちゃ残ってる」
 頭上からお兄さんの大きな声が聞こえた。
「嘘やん!」
「嘘です」 
 彼の冗談だった。一体なんの嘘やねん。しかしお茶目な接客をしてくれる大阪とも、今日でお別れだ。

 空っぽの部屋を掃除し、鍵の引き渡しを済ませ、梅田に向かった。出発前に友人と会う予定だった。高校の頃からの友人で、AV仕事のことも打ち明けている、なんでも話せる親友だ。

 彼女と夕飯を食べ、プリクラを撮りにいったりして、梅田の街をぶらぶらと遊んだ。
「今までも2ヶ月に1回くらいでしか会ってなかったけど、東京行くってのはやっぱり寂しいもんやな。永遠に会えないわけでもないのにな」
 彼女は言って「これ、餞別や」と、ハンカチをくれた。
「人の門出にハンカチ贈るって、縁起悪いらしいねん。でも手紙をつけると関係なくなるってネットに書いてたから、つけといた」
 ハンカチには「何かあってもなくても連絡して!」と小さな付箋がついていた。

 友人と別れ、バスターミナルへ向かった。さっきまでの哀愁はなく、ワクワクしていた。幼い頃、夜中に家を出発して家族で四国旅行をした。大学生の頃、夜行バスに乗ってディズニーランドに行った。社会人の頃、大勢の同僚とバスをチャーターして早朝の雪山を滑りに行った。夜中に出発する先には、いつもワクワクが待っていた。

 バスに乗り込む。他の乗客は明らかに私より若い。座席の間隔は思っていたよりずっと狭い。東京まで大丈夫だろうか。
「席、倒していいですか」
 前の席の人が聞いてきた。他の乗客もまるで呪文のように「席、倒していいですか」と聞き合っている。律儀で丁寧だが、少し不気味だった。

 バスが出発すると、すぐに目をつむり寝ようとした。しかし一向に眠気はやってこない。薄目で周囲を見回した。音楽を聞いていたり、スマホを見ていたり、みんな全く寝る気配がない。若者恐るべし。私もまだ若いけど。

 ガス会社に連絡しだろうか、開栓の立ち合いはいつだっただろう。水道会社には連絡してないけど、水は出るのだろうか。色々なことを考えてしまう。椅子に座っているのも辛くなってきた。さらに眠気は遠のいていく。

 結局一睡もできず東京、鍛冶場駐車場に到着した。バスに乗る前のワクワクは微塵も残っていなかった。体が痛い。シャワーを浴びたい。早く床と平行になって寝たい。よくこんな状態でディズニーランドなんて行けたものだ。眠たいのに頭は冴えてしまって、非常に不快な気分だった。

新居への不安と緊張

 グーグルマップで新居までの経路を検索する。キャリーケースを引いて地下鉄へ。電車は出勤の人たちで混雑していた。サラリーマンはこんな朝早くから通勤するのだな。1年前は私もしていたな。いや、自転車通勤だったな。

 最寄り駅についた。またグーグルマップを開く。鍵は開くだろうか、水は出るだろうか、電気はつくのだろうかと、不安がぐるぐる頭を巡る。気持ちを落ち着かせようとコンビニに寄って、当時ハマって飲んでいた「はちみつ黒酢ドリンク」を買おうとしたが、なかった。あれは関西限定なのだろうか。早くも大阪を想って悲しくなった。

 新居に着いた。鍵、あいた。水、でた。電気、ついた。ひとまず安心だ。荷物を置いて、部屋中をチェックした。トイレも流れるし、シャワーもある。目立った傷や汚れもない。しかし1点、問題を見つけてしまった。ベランダに物干し竿を通す金具がなかった。落ち着いたら管理会社に連絡しないといけないなと、少し気鬱になった。物干し金具問題をめぐって管理会社と闘った話は、また別の機会でしよう。

 9時頃、引っ越し業者がきた。空っぽだった部屋に荷物が運ばれていく。業者のお兄さんは2人。おそらく先輩と後輩という関係。先輩は後輩に対してとても冷たかった。
「自分の頭で考えたらわかるよね」
「もういいよ。俺がするから、この荷物運んで」
 ”東京”を見たような気がして不安になった。

 荷入れは1時間ほどで完了した。とりあえず、シャワーを浴びてスッキリしよう。しかしガスを開栓していないので、お湯が出ない。では横になって少し寝よう。しかし剥き出しのマットレスに寝転がるのは憚られる。まずは荷解きをしないといけないようだ。
 ”もう絶対に夜行バスで引っ越しなんてするもんか”。心に強く誓い、しぶしぶ荷解きを始めた。

 2時間ほど荷物と格闘した。ダンボールの山は減るどころか、はじめより体積が増えているような気がする。
「あー、めんどくさ」
 辛くなった時、あえてその時の感情を口に出すようにしている。そうすることで多少心が軽くなるのだ。もちろん周囲に誰もいない時限定。

 そういえば今は何時なんだろう。ベットの枕元に目をやる。時計があるはずのところに時計はない。まだダンボールの中だから。
「しんど」
 口から感情を吐いて、スマホで時間を確認する。もう13時ではないか。どおりでちょっとイライラしているわけだ。きっとお腹が空いているのだ。グーグルマップで近くのスーパーやコンビニを検索した。ファミリーマート、セブンイレブンの次に表示されたのは「まいばすけっと」。見慣れない名前のスーパーだ。とりあえず行ってみよう。

早くも東京の違いを感じ始める

 「まいばすけっと」はイオン系列の小さなスーパーだった。大阪で見たことのない店にワクワクした。私はちくわが好きだ。大阪のスーパーで好んで買っていたちくわを探したが、なかった。そしてここでも「はちみつ黒酢ドリンク」はない。だがもう東京で暮らしていくのだ。いちいち悲しくなっていけはいけない。コーラとチョコレートを買って帰った。 

「今日の夜、会って打ち合わせできる?」
 社長から連絡が来ていた。まずい、化粧しないと。化粧道具はまだ段ボールの山から発掘できていない。どこに埋まっているのだ。急いで、あらゆる段ボールを開封し、洗顔と化粧道具を発掘。顔を洗って、化粧をして集合場所へ向かった。

 またグーグルマップで経路を検索する。地下鉄に乗る。乗り継ぎをする。東京の駅は乗客を歩かせすぎではないか。階段も多いし、地下も深すぎる。大阪にいた時は、梅田も心斎橋も難波も全て自転車で行けたのに、なんだか不便だな。

「東京、どう?」
 喫茶店に到着して、社長が聞いた。「東京の地下鉄はやたら歩かせますね」とだけ言った。夜行バスできたことや、スーパーに馴染みの商品がなかったことは言わなかった。少し強がっていたのかもしれない。しかし社長に会いほっとした。この日呼び出されたのは、心細くなっているだろう私に対する、社長の気遣いだったようにも思う。

 打ち合わせを終え、まっすぐ帰路についた。また、まいばすけっとがあったので寄ってみた。ずっと探していた「はちみつ黒酢ドリンク」があった。
「東京にもあるんやん」
 2本買って、1本飲みながら、地下鉄に乗った。もう1本は明日の分。帰る足取りは少し軽かった。

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