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隣の爺さんが夜逃げした可能性は無ではない、

八月二日

僕ほど、嘘をつくことの巧みな人間はあるまい。
そして僕ほど、嘘つきの嫌いな人間もないだろう。

原口統三『二十歳のエチュード』(角川書店)

午後十一時四八分。玄米緑茶、森永キャラメル二個。パソコンは回復しないが体調はほぼ回復した。もう八月なんだな。七月の後半は、セナとの出会いがあって食中毒があって、フリーフォールさながらだった。今日から図書館通いを再開する。でもまた問題が持ち上がった。一難去ってまた一難が「人生」の通則ということか。理由あって詳細はここに書けないが、がっつりいうと、一万円を貸している隣の爺さんに連絡が付かないのだ。いつかけても「こちらはソフトバンクです。お掛けになった電話は電波の届かないところに・・・」ばかり。「仕事でしばらく部屋を開ける」とかいいながら夜逃げしたんじゃないのか。タバコのヤニで部屋を汚しまくっているジジイは原状回復費のことでよく嘆いていたからその可能性もゼロではない。空気が抜けないようにたまにでいいからこの自転車を走らせてくれと頼みながらジジイはそれを俺に譲ったのではないのか。「せめてもの償い」として。邪推がとまらない。だいたいあのジジイには中途半端な虚言癖がある(ようだ)。金を借りるため、あるいは返済期限を延長してもらうためならどんな見え透いた嘘でも平気でつく(ただそれらを嘘だとは証明できないのだ。嘘の証明はひじょうに難しい)。嘘というのは記憶力抜群のメンタルおばけみたいな人間が使うものであってあんなオツムの弱いの小心ジジイが使ってもだいたい失敗する(俺はジジイの「嘘」を信じたから金を貸したのではなく、単に恨まれるのが恐くて貸したのだ)。「生きる」ということは「巻き込まれる」ということらしい。だいたい生まれること自体が巻き込まれることだ。換言するなら、生むことは他人を巻き込むことなのだ。まともな神経を持った人間なら眠りこけている他人をわざわざ自分の「人生」に巻き込んだりはしないだろう。ところでなんでこんな小汚い人間どもに囲まれて生きているんだろうか俺は。二十歳くらいからずっとそう思っている。今回のことについてはさして怒っていない。かりに夜逃げであったとしたら、それはそれで望ましいことではないか。もう厄介なやつがいなくなったんだから。去年の前半はジジイが死ぬことばかり願っていた(いまそのころの日記を読み返せばその怨念に凄まじさに引いてしまう)。とうぜん夜逃げでないとしたらまた帰ってくるわけだから少しも問題はない。じっさいまた帰ってくるだろう。こっちの可能性のほうがずっと大きい。だってどう考えてもいま住んでいるアパートを捨てることは自分をもっと不安定な境遇に追いやることなんだから。あんな身寄りも貯金もない年金老人に部屋を貸す大家なんてそういないだろう。ああ疲れたよオイラは。人間というのはほんとうに嫌なものだ。阪神が七連勝中だ。森下翔太の顔がますます男らしくなっている。抱かれたい男ランキング上位にまた彼の名前が躍り出た。もちろんいまの一位はセナ様。セナ様がドラムを叩く姿を見ているとあんな虚言ジジイのことなんてまじでどうでもよくなる。めし食うかな。冷凍してある鶏皮を五分以上煮沸消毒してから炒めて食う。羹に懲りて膾を吹く、とはこういうこと。マタドガス。

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